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【竈門炭治郎】
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【フェミニスト批評】の是非を考える
彼の「長男だから」という発言を変更すべきだという指摘があります。
これまで長々と検証した通り、悪影響があるとは到底思えませんので、私としては議論の必要すら感じません。
不死川実弥の項目でも触れましたが、そもそも大正時代が舞台であるからには、そこを削除することは有害となりえます。
我ながらくどいとは思いつつ【フェミニスト批評】の観点から再検討させていただきますと……。
海外では既に定着しつつあるこの動きが、ようやく日本でも広まりつつありますが、実際問題、迷走したスタートを切っていて、ある懸念を感じるのです。
その理由を考えてみました。
・【フェミニスト批評】であるからには【フェミニズム】と【批評】両方の知識が求められる。ただ、このいいずれか、あるいは両方の認識が不十分なままでしているものがみられる
・SNSの普及は、誰でも批評家になれる時代の到来とも言える。知識が不十分なまま、問題がある批評でも、RTされるうちに広まって認められてゆく
・どんな雑な理論でも、バズればいいという認識で、ともかく殴ったもの勝ちの領域に突っ込みつつある
・『鬼滅の刃』のような時代ものでは、舞台となる時代背景への考察も求められる。そこが欠落した議論になると混沌としてくる
・「そうは言ってもどうせ少年マンガなんだから、大したメッセージなんかないし、読者もそこまで高度な考察をしなくてよい」というバイアスからの迷走
「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編には、女性専用車両が出てこない! 問題だ!」
「甘露寺蜜璃は露出が激しい! フェミニストはこんなマンガを読んではならない!」
ここまで極論ですと、取り上げて拡散することが混沌を助長するようで迷うところではあります。まぁ、こうした意見はそこまで多くもありません。
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甘露寺蜜璃(鬼滅の刃・恋柱)のピンクと緑は今どきバッド・フェミニスト♪
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ただ、炭治郎の「長男だから」については、変えるべきであるとか、ジェンダー観に悪影響を及ぼしかねないから有害といった論が定着しつつあり、しかも話題作だけに何度も見かけます。
批判するなら押さえておくポイントのようになっておりますが、果たしてそれが適切なのか甚だ疑問。
まだまだこれからとも言える【フェミニスト批評】ですが、うってつけの本もあります。
北村紗衣著『お砂糖とスパイスと爆発的な何か: 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(→amazon)です。
まずはこの本を読み、考えていただけると幸いなのですが……。
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追っかけから始めて何が悪いの?『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』
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己を鼓舞せよ、思想・良心の自由を保障せよ
炭治郎の「長男だから」とは、己を鼓舞する心の声として出てきます。
もしも頭突きをしながら「長男だからがんばれ!」と周囲に強要するのであれば大問題ですが、実際は自分に対しての文言ですよね。
そこまで制限するとなれば、それを指摘するのはハッキリ言って余計なお世話かつ思想及び良心の自由への侵害です。
この世にある問題とは【ジェンダー論】だけではありません。
雑な問題提起は、かえって発言者の信頼性を落としかねないもので危険。
【「長男だから」は有害だから変更すべき論】は、もう議論する必要性すら感じられません。
日本国憲法第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
むしろこうした雑な批評が拡大されることは、批評する側の信憑性を落とすだけでなく、人間の認識の過小評価も感じます。
「長男だから」は、もはやネタ扱いをされている。これは大正時代から認識が変わったという何よりの証拠です。
百年前ならば通じた道徳や理念も、現代では古すぎて陳腐になり、そうそう押し付けとして機能するとは言えません。
試しに「長男だから」という言説を、何がなんでも否定する側の年齢や属性を考察してみましょう。
年代や思考の傾向が見えてくるのではないでしょうか。
【自己認識】の問題――人は心が原動力だから
炭治郎の「長男だから」という自己認識は、あくまで彼自身のもの。
周囲からすれば奇妙であっても、本人だけが信じているのであれば無害です。
その【自己認識】に苦しめられるようになっているのであれば、それはまた別の話でしょう。
そしてこの【自己認識】こそ『鬼滅の刃』の重要な点です。
心こそ原動力であること。己を鼓舞すること。それが重要です。
『鬼滅の刃』には、極めて合理的かつ、最先端のトレーニングが反映されています。
この点は作中の大正時代よりもはるかに先進的でした。
◆負傷の程度を各自把握している。できない伊之助は問題があるとされる
◆回復を重視し、治療とリハビリを無理なく行う
◆ケアワーカーへの感謝と敬意を忘れない
◆訓練の手順が適切で、見て盗むような非合理性がない
◆鬼殺隊は【ダイバーシティ】を重視する
◆精神カウンセリング要素もある
◆適性が低いものは、危険度の低い「隠」とする
◆福利厚生はバッチリ! 笑顔の絶えない職場です!
鬼殺隊はメンタルケアに配慮がなされています。無惨によるパワハラ三昧の運営体制とは対照的ですね。
心と精神を大事にするということは、その要素だけで無茶振りをすることではありません。
作中では、四肢や視力を失う人物が多数出てきます。
それでも彼らは立ち直り、生きていくと示される。
確かに四肢を失った時はショックを受ける。不便だし、あればよかったという悔恨が消えることはありません。それでも人は、精神力さえあれば、喪失を乗り越えて生きてゆけます。
一方、メンタルが壊れた人はどうにもなりません。
身体的にはどこも失っていないけれども、精神的打撃から立ち直れずに堕落してしまう人物も出てきます。
元炎柱であった煉獄槇寿郎(れんごくしんじゅろう)が典型でしょう。
人格が高潔であっても、精神的打撃につけこまれ、鬼となってしまう猗窩座(あかざ)もおりました。
いかに精神が大事であるか?
そのことを重視するとなれば、傷つかないようにケアすることはとても大事なのです。
鬼殺隊は選抜と任務こそ厳しいものの、いったん中に入れば合理的な配慮が隊士に対しておこなわれます。
胡蝶しのぶや不死川玄弥のように、腕力や才能が劣るものが、工夫次第でカバーすることも取り上げられます。
多様性を重視し、戦う精神を保てるようにしているのです。
そこは大正時代、かつ任務が危険であはりますが、かなり優しい環境を作る工夫が随所にあります。
これは日本の歴史を語る上で、重要な観点とも言えるのではないでしょうか。
大正後の昭和初期、日本は第二次世界大戦に参戦しました。
ちょうど炭治郎の子世代にあたる大正末から昭和初期生まれの世代は、従軍による死傷が甚大。
復員しても精神が破壊され、荒んだ生活を送った人も多いのです。
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そういう苦い教訓から日本はどう反省したのか?
と言いますと、それは私たちが自問自答すべきこととなるでしょう。
無惨が鬼を問い詰める様子を“パワハラ会議”と呼び、コラージュ画像を作ってしまう……これこそ、私たちはメンタルケアが十分になされていない日本社会を生きているという、何よりの証左ではないでしょうか。
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