戦争は「最悪の外交策」と言われます。
そもそも外交の一歩目は話し合いでですから、そりゃそうですよね。
人命も物資も何もかも損失するような真似、誰だって、どこの国だって、やりたくないに決まっています。
しかし、近代においてはやむをえず行うこともままありました。
「自衛戦争」というタイプのものがそうです。
書いて字のごとく、自分の国を守るための戦争――防衛戦と言い換えたほうがわかりやすいでしょうか。
明治三十八年(1905年)9月5日に日比谷焼打事件が起こった遠因は、防衛戦とも考えられる日露戦争でした。
「日本とロシアの戦争で、大陸まで行ってたのになんで自衛なの?」
そう思われるかもしれませんが、当時のややこしい国際関係を振り返ってみましょう。
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ロシアが朝鮮半島へ南下した次は……
アヘン戦争で負けてしまった後、大国だった清はボロボロもいいところ。
日清戦争では後進国だったはずの日本にも負けてしまいます。
「西洋がナンボのもんじゃい! 清帝国バンザイ!!」と味方になってくれる人々(義和団)もいましたがあっさり鎮圧され、ますます清は弱体化していってしまいました。
ここへ食指を伸ばした国の中に、ロシアも入っていたのです。
ロシアは何百年も前から真冬でも使える「不凍港」を求めていました。
真冬になると、ロシアの主な港周辺の海はほとんど凍ってしまって使い物にならないからです。
そんな折、国土を南で接する清が弱体化してるんですから、ロシアにとってはこの上ないチャンスであり、その後、衝突するのは当時建国したばかりの大韓帝国(今の朝鮮半島全域)と日本でした。
朝鮮半島はずっと清の属国だったため、単独で戦争をしたことがありません。
頼みの清も今となってはほぼ無力。
となると、ロシアの南下を防げる可能性を持っているのは日本しかありませんでした。
もちろん日本は日本で大陸での権益を守るためでもありましたが、ここでもし朝鮮半島~中国北東部までがロシアの勢力圏になってしまうと、自分のところも危うくなってしまいます。
というわけで、日露戦争は『本格的にやられる前に食い止めるしかない……』という一面がありました。
果実をいただき講和へ!
もっとも、この頃の日本政府も、ロシア相手に真正面からぶつかって、完全に勝てるとは思っていません。
「こっちが一番有利になったタイミングで、賠償金と領地もらって講和にしよう」
そんな見解だったところに、あの有名な日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊(※ただし地球を半周した後でギリギリボロボロ)に勝ったのですから、これほどいいタイミングはありません。
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ロシアからすれば『ウチまだ余力あるからチミのところなんてぶっ潰せるんだけどなー』というスタンスでしたが、ここで仲裁に入ったのがアメリカ。
「うちが間に入るからさ、もう仲良くしなよ」と見せかけて、アメリカはアメリカで思惑があったのですね。当たり前ですが、どこも真っ黒です。
なんせ当時の【中国~朝鮮半島】は競売に出されているも同然ですから、アメリカだって『遅れてなるものか』状態。
そこで講和条約を結ぶ場所をアメリカのポーツマスとし、日露双方の代表が集まって調印が行われました。
条件がとても多いので割愛しますが、いつものように超訳しますと
【ロシアは極東地域から一旦手を引いて、極東側の領土を一部日本にあげてね! 日本は一部地域だけ権益を認める! 以上!!】
というものでした。
一番大切な賠償金は「やーなこった」と払ってもらえません。
そりゃあロシアは、やろうと思えばもう一回戦できるというスタンスですから払う気はありませんな。
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