渋沢栄一(左)と伊藤博文/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

オンナの苦海が明治時代に加速する~天保老人ら遊び自慢の陰に泣く

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明治時代も続く女性の苦海
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かつては歌舞伎の演目のように、苦界に身を落とす遊女は憐れみの目で見られていました。ときには美談扱いもされた。華麗なるファッションリーダーとして花魁への憧れも。

そうした彼女らへの同情と羨望は、明治以降、薄れてゆきます。

例えば呼び名にも、その変化は表れています。

明治初期は「隠売女(かくしばいじょ・隠れて身を売る女)」という娼妓の呼び名がありました。

それが段々と「淫売女(いんばいじょ・淫らであるから身を売る女)」へと変化してゆくのです。

「やむなく隠れて身を売る」という見方が、「淫らであるがゆえに身を売る」に変化した――つまりは好きで楽をしたくて、身を売っているという名目になったのです。

通俗道徳」という自己責任論のもと、こうした見方はますます悪化しました。

通俗道徳
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近代社会が変える遊郭

日本に身を売るプロが生まれたのは、9世紀頃とされています。

中世の遊女は、歌や踊りを提供し、定住していたとは限りません。

大河ドラマ『麒麟がくる』における「伊呂波太夫の一座」は、こうした遊女の一面もあると推察できる場面がありました。

江戸時代以降、それが変わってゆきます。

徳川幕府は遊郭を公認しました。都市で働き、家庭を持つとは限らない若い男性に奉仕するため、定住する遊女を置いたのです。

さらには都市や街道の発展と共に、女性の身売りシステムが整備されてゆきました。

明治になっても、こうした意識の根本は変わりません。

政府は、軍隊の駐屯地、産業が発達する都市、植民地とした都市に、積極的に遊郭を設置してゆきます。

そうして遊郭を設置する反面、政府はある悩みに直面します。

梅毒をはじめとする性病です。

江戸時代は「花柳病」と呼ばれ、遊び人の宿痾(しゅくあ)とされたものの、明治政府としては見逃せません。

都市、ましてや軍都で感染が拡大したら、それは国家の弱体化に繋がります。

そこで兵士には

「女を買うなとまでは言わない。しかし、せめて安いその辺の女ではなく、政府公認の娼妓とすべし」

と、大して効果があるとも思えないことが言われます。

遊女改め娼妓には、医学的な対処も取られました。感染予防という名目で、屈辱的かつ虐待的な性器洗浄や検査を義務付けられたのです。

むろん、それでも予防しきれない時代のこと。

娼妓と遊んだ夫が、妻や子に感染させてしまう――そんな悲劇は日本のあちこちで繰り広げられたものでした。

しかも、禁欲を打ち出されて、厳しく言われるのはなぜか女性ばかり。

政府上層部がだらしなく、女性に悪いことを押し付け責任回避をしているのですから、当然のことかもしれません。

むしろ権力者ほど、女性の苦境につけ込んでいると思われることすらある。

伊藤博文はじめ権力者は娼妓を囲っておりました。

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渋沢栄一にしても、そうです。

妾のくににせよ、後妻の兼子にせよ、女性の生きる道が狭いからこそ、渋沢栄一は彼女らを手に入れたと言えなくはありません。

もしも太平の世であれば、くにも兼子も家が傾きはしなかったでしょう。

 

「天保老人」は古い 男の貞操を問われる時代へ

しかし、世の流れに全く変化がなかったわけでもありません。

政府はやる気がなくとも、民間は違います。

明治以降に解禁されたキリスト教、特に新たに入ってきたプロテスタントの教えを広める者たちは、娼妓の苦しみに寄り添う姿勢を見せました。

当時、芽生え広まっていった女性の権利獲得を目指す運動も、娼妓を救う力となりました。

春駒という娼妓であった森光子は、柳原白蓮の元へ逃れ、自らの苦境を訴えました。

彼女は自らの苦悩を『吉原花魁日記』と『春駒日記』に記しています。当時の娼妓の苦労がわかる名著です。

そんな女性の苦しみを思い、自ら貞操を守る男性も出始めました。

貞操とは、愛する新妻に捧げる最高の贈り物だ――日本史上でも珍しい、そんな思想も生まれたのです。

江戸時代以前は「日本では処女も童貞も価値がない」とされ、訪日外国人は呆れ気味に記録しているほどでした。

源氏物語』のような古典にも、その意識はあります。

光源氏は、戯れかかった女性が処女だとわかると面倒だと思うのです。鬚黒という男が玉鬘の処女に大興奮と知ると、笑いものにしています。

戦国時代に来日した宣教師たちも、日本人男女の貞操観念の薄さに呆れ果てておりました。

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処女よりも童貞の方が、さっさと捨て去るもの扱いが強い。いつまでも童貞ですと、何か問題があるのではと思われるほど。

「貞操」と言われる価値観は、女性にだけ問われるものという暗黙の了解がありました。

それが明治以降、梅毒の危険性、プロテスタント的な価値観の流入により、処女と童貞の価値が見直されたのです。

西洋と比較して、あまりに性的に放縦であるのは恥ずかしいから、隠し通そう……と、そんな意識のみならず、精神の美しさを見出しました。

時代が降ると処女だけでなく童貞だって神聖であるという価値観が、エリート青少年に広まるようになりました。

男女同権や平等という価値観も、背景にはありました。

「妻に処女を求めるのであれば、自分自身も童貞でなければおかしいではないか!」

こうした思想を掲げる青少年のことをご想像ください。

彼らからすれば、娼妓や芸者を囲い、モテただの、粋な遊びをすると吹聴する上の世代がどれほど疎ましかったことか。

そのころ「天保老人」という蔑みの言葉がありました。

天保年間に生まれた老人が権力にしがみつき「昔はああだった、こうだった……」と威張る様を皮肉ったものです。

さしもの渋沢栄一も、こうした目線から無縁とは言えません。

最初の妻である千代はじっと耐え忍んでいたものの、後妻の兼子はこう皮肉りました。

「あの人も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」

千代との忘れ形見である篤二も、芸者遊びが辞められず、怒った姉たちの反対により廃嫡されています。

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そう、時代は確実に変わったのです。

渋沢栄一や伊藤博文といった、天保生まれの権力者たちの生き方は軽蔑されるようになった。

当人たちは金や権力で口封じできても、周囲の人物はそうなりません。

しかし、こうした意識が浸透し、女性の救済につながってゆくまでには、長い歳月が必要でしょう。

『青天を衝け』の関連記事や感想に目を通すと「当時の女遊びはそんなもの」という擁護がしばしば言われますが、未来に向けて出す答えはそうではないはず。

渋沢栄一が年老いた頃、天保老人の遊び自慢なんて古臭いものとして呆れられていた。

「当時だってそういうもの」ですし、現代を生きる私たちは、なおさら「天保老人」に忖度する必要はありません。

『青天を衝け』をキッカケに意識を変えるチャンスではないでしょうか。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『新書版 性差(ジェンダー)の日本史』(→amazon
横山百合子『江戸東京の明治維新 (岩波新書) 』(→amazon
長野ひろ子『明治維新とジェンダー』(→amazon
松澤裕作『生きづらい明治社会: 不安と競争の時代』(→amazon
鹿島茂『渋沢栄一伝』上下(→amazon
沢山美果子『性からよむ江戸時代 生活の現場から』(→amazon
松下孝昭『軍隊を誘致せよ: 陸海軍と都市形成』(→amazon
澁谷知美『日本の童貞』(→amazon
『東アジアの性を考える』(→amazon

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