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【ゴールデンカムイと函館氷】
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幕末の商人は逞しかった
嘉永6年(1853年)――ペリーの黒船が来航し、慌てふためく幕府の面々。
幕末を扱った作品ではおなじみの光景であり、実際、大変な時代へ向かってゆきました。
地震が頻発するわ、コレラが大流行するわ、物価も上がるわ。無茶苦茶な時代に突入しても、人々はどうにか生きていくしかない。
そんな中、ビジネスチャンスを見出す者たちもいます。
幕末を描いた作品は、政治闘争の舞台である京都が中心となりますが、江戸に目線を向けてみると、人々は新時代へ向けて確実に変わりつつありました。
例えばメディアです。
黒船がやってくると、現地では見物客目当てに屋台が出るほか、当時の庶民メディアである「瓦版」売りが速報を伝えました。
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今で言えばワイドショーが事件現場へ向かうようなものですね。
瓦版を売る版元たちは、そうした新たな情報へのニーズをふまえ、浮世絵師たちに新たな絵を発注し、以下のような作品が次々に発売されてゆきました。
相撲取りが外国人を投げ飛ばし、スカッとする絵。
コレラ退治の絵。
さらには横浜絵(横浜の様子を描いた浮世絵)。
当時の浮世絵は、今のように文化芸術の類ではなく、あくまで庶民の娯楽です。
ゆえに売れれば次々に刷られ、絵師の元へは新たに発注が舞い込み、徐々に刺激が強いものを求められていくせいか、黒船や異人、殺人事件から着想を得た血みどろ絵まで描かれるようになりました。
そうした血みどろ絵で名を挙げた絵師の代表格が月岡芳年。明治になってから血飛沫は控えめになったものの、スリリングな画風が持ち味でした。
そんな芳年が描いた『鬼神於松四郎三郎を害す図』をご覧ください。
『ゴールデンカムイ』ファンならば必見。この絵とそっくりな場面が作中に出てきますね。
よっしゃ、ならばワシも浮世絵の版元になろう!
もしも皆さんがこの時代に生きていたら、そう考えたくなりますかね? しかし、それでは取り残されるかもしれません。
もはや絵の時代じゃない。これからは写真だ!
として、写真館を開くものも出てきました。
遊女はもちろん、外国人客をお得意様とする。唐人お吉はむしろ例外。
メルメ・カションというフランス人の妾は、彼からもらったメリンス(毛織物)が自慢で「メリンスお梶」と呼ばれたほどです。
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他に例を挙げれば、幕臣随一の経済通である小栗忠順はホテル業へ乗り出しています。
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あるいはアメリカ人ハリスは「牛乳が飲みたい」と要望を出していますが、そうした需要に応じて洋食も急速に広まっていきます。
いつの時代もニーズがあれば商売は伸びる。幕末も同じことだったんですね。
三河生まれの中川嘉兵衛、横浜に来る
そんな時代に三河生まれのちょっと変わった男が横浜にやってきました。
文化14年(1817年)生まれの中川嘉兵衛(なかがわかへえ)という人物。
幕末に活躍した世代は、これより年下の天保年間が多く、文化年間生まれだと幕末の頃には40代にさしかかっています。
当時ならば初老であり、そろそろ隠居してもよい年齢です。
そんな遅咲きである嘉兵衛は、イギリス公使オールコックの初代料理人となりました。
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当時の日本人は肉や乳製品の臭いだけで気持ち悪くなることも珍しくありません。
なんせ徳川慶喜に対する定番の悪口は「あの豚だの牛を食っている一橋」でしたからね。
嘉兵衛は驚異的なチャレンジ精神の持ち主でした。
当時は攘夷事件の真っ最中であり、外国人だけでなく彼らと親しい日本人も襲撃対象となり、料理人といえども命懸けの仕事になります。
それでも嘉兵衛は、積極的に洋食に馴染み、かつビジネスチャンスに目を光らせていました。
牛乳、パン、バター、ビスケット、牛肉……と、西洋人向けの食品を売り始めたのです。
横浜の西洋人たちにとっては、食品だけでなく信仰や医療も重要です。
ヘボン式ローマ字でおなじみのヘボン、シモンズといった宣教師と、嘉兵衛は親交を結びました。
「氷さえあれば肉や牛乳も保存できるのだが」
「火傷の治療には、氷が必須なんだ」
人々の困り事にこそ商機あり――そんな風に語る彼らを見て嘉兵衛は閃きます。
横浜に氷室を設置して氷を売ればよいのでは?
かくして氷ビジネスを思いついた嘉兵衛ですが、言うは易し、実際は非常に困難でした。
当時はまだ製氷技術が追いつかず、天然氷が主流であり、一大生産地はニューイングランド州の「ボストン氷」でした。
ボストン港から積み出されるのでそう呼ばれ、1500キロの氷塊も半年かけて運ぶと、当然のことながら溶けて半減してしまう。
中国の天津から氷を運んでくる商人もいましたが、やはり距離があってかなり目減りする。
ならば国産氷を運べば、大儲けではないか?
中川嘉兵衛は宣教師の助言を受けつつ、ついに氷ビジネスの一歩目を歩み始めました。
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