藤原伊周/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

女性関係のもつれで放った矢が法皇へ!藤原伊周が長徳の変でやっちまった

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藤原伊周と長徳の変
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病気だから太宰府には……他にも……って往生際が悪い!

伊周は病気と称して太宰府への出発を拒んだとか、父の墓や藤原氏の氏神である春日大社に詣でてから出発したとか、いろいろいわれています。

後者なら殊勝なことですが、前者はただの悪あがきですね……。

しかも、出発した後も「母が病気だから心配で」という公人としてはダメすぎる理由で、こっそり京都に戻ってきています。

このときは出産間近のため、実家に戻っていた定子の屋敷に潜んでいました。

当然バレ、ひっ捕らえられて太宰府に送られています。

定子がこのときショックのあまり、身重の体ながら自らはさみで髪を切り、出家してしまった……等々の流れは、以下、藤原定子の記事にありますね。

藤原定子
藤原定子はなぜ自ら髪を切ったのか 一条天皇の愛に支えられた儚き一生

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(細かい政治事情や兄のアレっぷりを知らなかったであろう)定子の側から見ると悲劇なのですが、上記のような伊周の言動を知ってしまうと、「自業自得なのか……」とも思ってしまいます。

翌年、東三条院の病気快癒のために大赦が行われ、伊周と隆家も許されて京都に戻っています。

しかし、留守の間に道長の立場は絶対的なものになっており、中関白家の隆盛を取り戻すことは不可能になっていました。

既に道長の娘・藤原彰子中宮になって「一帝二后」が成立したことで、さすがの伊周も自覚したことでしょう。

藤原彰子
藤原彰子(道長の娘)日本で最も権力を有した男の娘は幸せだったか?

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定子も3人目の子供である内親王の出産で亡くなったとき、伊周は大いに悲しんだといわれています。

中関白家は情の濃い人が多かったらしく、身内の死去に関する逸話がたびたびみられます。なのになぜ、他人の視線や心象が心に留まらないのかが不思議ですが。

 

どうしても許せなかった一条天皇

一方、東三条院は大赦の後も体調が良くならず、伊周を元の位である正三位に戻すよう一条天皇に促しました。

しかし、最愛の皇后を苦しめた原因である伊周を、一条天皇はどうしても許せなかったようです。

道長が「そろそろ伊周を復位させてもよろしいのでは?」と奏上したときも、一条天皇は激怒したといわれています。

一条天皇からすれば、「あのアホのせいで、せっかく皇子を授かったのに定子は落飾してしまった。きっと三回目の出産であんなことになったのも、伊周の行いに対して神仏がお怒りになったからに違いない。おのれ!!!!」ってなもんだったでしょうからね……。

それでも長保五年(1003年)に伊周は従二位になっているので、この頃には一条天皇の怒りも解けていたようです。

道長と交流した話もあり、少しは関係が改善したものと思われます。

こうしてみると、道長、割とイイ奴ですね。当社比もとい教科書比ですが。

藤原道長
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また、定子が亡くなったとはいえ、その子である敦康親王はまだ皇位継承第一位だったので、他の貴族も伊周の機嫌を伺うようになりました。

しかし、彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を産むと、道長は態度を豹変させ、他の人も右にならえとばかりにそっぽを向きます。

母の実家の事情がものを言う、この時代の政治事情がよくわかりますね。

 

藤原伊周のきょうだいたち

その後もKYな言動や呪詛疑惑などで立場の浮上と沈下を繰り返した後、伊周は36歳で亡くなりました。

娘二人には「宮仕えをして親に恥をかかせるようなことをしてはならない」、息子には「人の言いなりになりながら出仕するくらいなら出家しろ」といった遺言を残していたとか。

「それアナタが言いますか……」とツッコミたくなりますけれども、自覚があったからこそ、子供たちにはもっと穏やかに生きてほしいと思ったのかもしれませんね。

そんなわけで半分は自業自得、半分は運の無さで不遇をかこった伊周でしたが、他のきょうだいたちも似たようなものでした。

おおよそ上から順に、簡単にご紹介していきましょう。途中「?」がついているのは、生年不明の人です。

藤原北家の出で生まれた年がわからない人がいる、というのは意外ですね。

・長庶子 藤原道頼

庶子ながらに兄弟の中でも一番の美形で、将来を期待されていたそうですが、長徳元年(995年)に25歳の若さで亡くなりました。

伊周絡みの不運に見舞われなかったのが最大の幸運……といっていいのかどうか。

・次男 藤原頼親

伊周よりも昇進が遅いため、正室生まれではないと思われます。

そうこうしているうちに家全体が没落したため、やはり不遇のまま、伊周と同じ寛弘七年(1010年)に38歳で亡くなりました。

・四男 藤原隆家

前述の通り、伊周とともに花山法皇に矢を放つなどの罪で中央を追われた人です。その前から荒くれ者として有名だったそうなので、元々血の気が多かったのでしょうね。

許されてからは比較的真面目に働き、自ら大宰府に行って大陸からの海賊対策などもしています。

が、隆家の帰京後に都で天然痘が大流行し、「隆家が海賊からもらってきたんじゃないの?」という不名誉な噂を立てられました。火のないところに煙は立たぬといいますし、何かしらの理由で不信感を持たれ続けていたのでしょうね。

この時代の中関白家の中では一番長生きしており、寛徳元年(1044年)に65歳で亡くなっています。

「ヤンキーが更生して真面目に仕事をするようになり、結果として長生きした」という感じでしょうか。

・次女 藤原原子

一条天皇の次の代である三条天皇の后になった人です。

しかし伊周らの失脚によって後見者を失い、子供にも恵まれず、長保四年(1002年)に突然血を吐いてそのまま亡くなったといわれています。

あまりにも不自然なので、当時から毒殺されたのでは……といわれていたとか。

・五男 隆円

幼いころに出家し、一条天皇の側近として仕えていました。枕草子にも「僧都の君」としてたびたび登場しており、定子とのエピソードもよく知られています。

伊周・隆家のいる中は定子の側でよく励ましており、定子が亡くなったときも、大雪のなか棺につきそったとか。

・三女 藤原頼子

詳細不明です(´・ω・`)

それだけ平々凡々な生涯を送れた……ということならいいのですが。時代的に、夭折した可能性もありますね。

・四女 御匣殿(みくしげどの)

中宮時代の定子に仕え、薨去間際の定子に皇子女の養育を任されていました。

そのうち一条天皇に愛され、懐妊したのですが、出産前に亡くなっています。

相次ぐ寵妃の死に、一条天皇はひどく落胆したとか。御匣殿が亡くなってから彰子との子供が生まれるまでに6年ほどの間があるのですが、これは一条天皇が心の傷を癒すのにかかった時間なのかもしれません。

・六男? 藤原周家(ちかいえ)

真面目に仕事をしていたっぽいのですが、あるとき周家の物を盗もうとした家臣にブッコロされてしまっています。

中関白家でも一・二を争う不幸ぶりです。

よほどその家臣がアレな人だったのか、周家が日頃から恨みを買っていたのか……。

・七男? 藤原周頼(ちかより)

サボりすぎてクビになった、という異例の公卿です。マジで。

しかも一度は真面目になったのに、晩年に再びクビになっています。

どうも、中関白家には時折血の気の多い人や不可解な行動をする人が生まれるようです。晩年の頃は病気か何かで出仕できなくなっていたのかもしれませんが、それにしたって……ねぇ。

・八男? 藤原好親(よしちか)

道隆の子供としてはおそらく末っ子と思われる人で、中関白家が没落してから出仕しています。

かといってまともかというとビミョーなところで、三条天皇の行幸についていくはずだったのにサボったりしているのですが。

晩年は出家しているあたりがなんともいえません。

……というわけで、きょうだいのうち半分以上が不遇の死を遂げていることになります。

物忌みやら魔除け、病気快癒の祈祷やらがしょっちゅう行われていたこの時代、これほど不幸に見舞われて何もしなかったというのが信じがたいほどです。

それだけ平安貴族が荒っぽかったということなんですかね。

やっぱり怖いぞ平安京

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【参考】
国史大辞典
藤原伊周/Wikipedia

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