藤原為光

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

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藤原為光(斉信と忯子の父)の地味なのになぜか輝く存在感~光る君へ阪田マサノブ

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藤原道綱・道長とのトラブル

同時期の藤原為光はどんな立場だったか――それを示すような話があります。

永延八年(987年)4月17日のことです。

藤原兼家の息子である藤原道綱と藤原道長の兄弟が、同じ牛車で葵祭の見物に行こうとしていました。

二人は異母兄弟でも仲が良かったようで、この日もウキウキしながら同乗していたのでしょうね。

しかしアタリを付けていた場所には先に為光が着いており、大勢の従者たちで埋まっていました。

そこで道綱と道長の牛車は他の場所へ向かおうとしたところ、為光の牛車の前を横切ってしまったため、従者たちが激怒。

道綱・道長の牛車へ一斉に石を投げるという暴挙に出たのです。

この時点では為光のほうが圧倒的に高い身分なので、従者たちはその威信を守ろうとしたのでしょうけれども……やりすぎですね。

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従者同士の間で日頃から諍いがあった可能性もなきにしもあらずですが。

道綱・道長の兄弟が、父にこの件を報告するのと前後して、為光の家司が詫び状を入れに来たり、為光本人も兼家に会って謝ろうとしたりしています。

為光が直接何かをしたわけではありませんが、当時の従者たちは日頃から主人の言動をよく覚えていることが多く、

「主人のために!」

と先走って行動することがままありました。

為光が、兼家やその息子たちに関する愚痴を言ったことがあって、それを覚えていた従者たちが

「日頃から殿を困らせているいけ好かない奴らが、祭の日にとんでもなく失礼なことしてきた! 許せん!!」

と暴走した結果だったのかもしれません。

ちなみにこの年の末に道長は源倫子と結婚し、翌年、藤原彰子が生まれ、やがて天皇の外戚としての地位を確立していくことになります。

為光からすると、自分ができなかったことを甥にやられた形になるわけです。

彰子が入内する頃になると、為光は既に鬼籍に入っているので不幸中の幸いかもしれません。

牛車の乱闘事件も影響したのか、以降の藤原為光はどこか諦めた空気というか、老い支度に入ったような動きをしています。

永延二年(988年)に忯子の菩提を弔うために法住寺を建立。

仏道に励むことで、政治的な憤懣を和らげる目的もあったかもしれません。

ちなみに法住寺は一度焼失した後、平安時代末期に後白河法皇の御所「法住寺殿」となり、さらに源平合戦の中で木曽義仲に焼き討ちされることになります。

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位人臣を極めたけれど

正暦二年(991年)、藤原道隆の推挙で、藤原為光が太政大臣に任じられました。

本人の日記では「私が太政大臣に任じられた」としか触れられておらず、あまり嬉しくなさそうに見えます。

この件に関しては、むしろ藤原行成の日記『権記』のほうが詳しく、以下のように書かれています。

「摂政である藤原道隆が太政大臣になるべきだが、彼は遠慮した。

それなのに無理やり任じて昇進させるのは彼の心と違えることになる。

そのため歴代の重臣である右大臣為光を太政大臣に任じる」

つまり最初から為光が太政大臣に決まっていたわけではなく、

「道隆が遠慮したおかげで為光に太政大臣の座が回ってきたんだから感謝しなさいよ」

と言われているも同然。

為光にとっては悔しいやらやるせないやらで、日記に詳細を書きたがらないのも頷けます。

貴族の日記は基本的に「歴史や前例を子孫へ伝えるために書かれる」ものなので、感情を入れずに書くことで他家との軋轢を防いだのかもしれません。

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為光が亡くなったのは、太政大臣に任じられた翌年の正暦三年(992年)6月16日でした。

位人臣を極めたにも関わらず、素直に喜べなかったのは、経緯もさることながら体調面の理由もあったのかもしれません。

為光本人の生涯は以上ですが、彼の名は本人の死後にも頻繁に登場します。

彼の息子たち・娘たちが複数人歴史に関わってくるからです。

特に逸話のある人達を中心に振り返っておきましょう。

 

四納言の一人 次男・藤原斉信

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藤原公任・藤原行成・源俊賢と並ぶ【寛弘の四納言】の一人に数えられる貴族ですね。

彼は道長と接近することで、侍従・蔵人頭・参議・大納言と出世しました。

詩才に優れ、立ち居振る舞いも優雅ということで後宮での人気も高かったようです。

一条天皇中宮藤原定子のもとによく出入りしていたため、枕草子でたびたび登場します。

「斉信が清少納言と絶交しようとしてやっぱり気になって手紙をやった話」

「服装の趣味が素晴らしいと清少納言が内心で絶賛し、定子や他の女房たちとの話題になった話」

「清少納言が宿下がりしているときに、元夫の橘則光に”清少納言を訪ねたいので居所を教えろ”と迫った話」

宿下がりから始まる段は則光との物別れに関する話で締められているので、清少納言は斉信に対して素っ気なく見えます(個人の感想です)。

身分の差からくる遠慮かもしれませんが。

その後、斉信は道長に接近し、彰子や威子の中宮大夫、そして敦成親王(のちの後一条天皇)の東宮大夫なども務めています。

あまりにも鮮やかな鞍替えだったためか、藤原実資には小右記の中でディスられているほどです。むしろ実資が例外なんですけどね。

その実資が長生きしたことなどにより、斉信は大臣になれずに終わっています。

とはいえ晩年は穏やかなものだったようなので、この時代の人としては幸運なほうでしょう。

藤原斉信
藤原斉信は隆から長に鞍替えして貴族社会を生き残る『光る君へ』はんにゃ金田

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