平安貴族と日記

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

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平安時代の貴族に「日記」が欠かせない理由~道長も行成も実資もみんな記録を残している

大河ドラマ『光る君へ』でロバート秋山さんが演じる藤原実資

彼にはドラマで定番となったネタがあります。

“日記”です。

実資が長々と政治不満をぶちまけると、周囲からは「しつこいなぁ~日記に書けばいいじゃない」と突っ込まれる。

なぜこれほど思わせぶりなシーンがあるのか?

というと、藤原実資が『小右記』という日記に愚痴を残しているからであり、劇中で「こんな恥ずかしいことは書けん!」なんて語ってはいるけれど、実際は現代にまで残されてしまっている。

実資だけではありません。

藤原道長の『御堂関白記』にせよ、藤原行成の『権記』にせよ、あるいは時代が降って藤原頼長の『台記』や九条兼実の『玉葉』など、ときの有力者はみーんな日記を残している。

ではなぜ彼らは、そんな面倒なことを続けたのか?

理由を振り返ってみましょう。

 

日本で歴史といえば?

平安貴族における日記とは一体どんな存在なのか――これを考える上で最初に触れておきたいのが中国の史書です。

むろん理由はあります。

大河ドラマ『光る君へ』でも、主人公まひろの父・藤原為時は、自身の息子や花山天皇に『史記』の講義をしていました。

中国人だけでなく、日本人も長らく「歴史を学ぶなら、中国の史書だ」と考えていたのです。

それだけではなく

「文学といえば『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』だ」

という言葉も残されています。

藤原為時や藤原公任のように古い時代の言葉で……はなく、文豪としてお馴染み、夏目漱石の若い頃の回想です。明治までの日本では、そんな認識が残されていた。

日本人の文章の中に「歴史を学んだ」という記述があった場合、その中身は「中国の史書だった」なんてことがあっても全くおかしくはなかったのです。

歴史というなら、源平時代や鎌倉時代を学ぶ――ではダメなのか?

そんな風に思われるかもしれませんが、日本の歴史は武士の争いが多くてエンタメ要素が強いため、

「庶民の娯楽と歴史の勉強を混同するな」

と注意されかねません。

昔の教養ある日本人にとって、武士が戦う軍記物は、現代であれば漫画やアニメのようなエンタメに分類されても仕方ない存在だったのです。

むろん武士が戦わない日本史だってあります。

『日本書紀』:国つくりから持統天皇まで

『続日本紀』:持統天皇から桓武天皇まで

問題はこのあとです。

史書が続かない。平安時代を迎えて、当時の貴族たちは色々と緩んでしまいました。

それまでは唐を手本として国家作りを推し進めていたのに、なし崩し的に【遣唐使】が終わってしまうと、史書の編纂まで途絶えてしまう。

中国史と日本史の記録を比較すると「もうちょっと残してくれよ……」とぼやきたくなる。

確かに中国史でも、女性の名前は残されませんが、かりにも皇帝の後宮入りを果たした妃などであれば、最低限でも実家や出身地程度は記録されます。

しかし日本では、それすら危うい。

こうした状況を踏まえながら、平安貴族の日記を振り返ってみましょう。

 

男性貴族は漢文で日記を残す

きちんとした記録がなくて困るのはいったい誰なのか?

というと他ならぬ平安貴族です。

彼らの仕事は宮中の儀礼であり、万が一、その手順を間違えてしまうと「なぜアイツはああも無能なのか?」と笑い物になってしまいます。

こうした恥を避け、自分の家(子孫)を盛り上げていくにはどうすればよいか?

貴族の文才は、公的な史書に残すのではなく、個人個人の日記に向けられました。

ご先祖様の日記を子孫が読みかえしたときに、「手順がわかりやすく、スムーズな仕事ができる」よう書き残しておいたのです。

こうした先例は【有職故実】と呼ばれます。

ただし、日記に記録を残すと言っても、そう簡単な話ではありません。

まず当時の文房四宝(筆・隅・硯・紙)からして、凄まじく高価!

紙を揃えるだけでも富裕層の特権であり、先祖から引き継いだ情報を事細かく手順にして残す――そんな知識の蓄積は知恵と財産の象徴です。

藤原実資は事細かに記したため、前例に詳しいエキスパートです。彼の異名「賢人右府」とは、インプットが豊富だからこその呼び方でしょう。

こうした日記は各家に残り、ステータスシンボルとして引き継がれていきました。

現代まで名前が残っているのも「あの人が残した日記は貴重だ」として、その知識を求める人、残した人がいるからこその話です。

貴重な情報ですと、分割されてでも流通ルートに乗ってしまうため、途中だけ散逸するような事例も出てきます。

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これまた中国史目線からツッコミを入れると、こうなります。

「マナーが大事なら、その分野で経典を編纂して残せばいいでしょ!」

だったら中央でまとめて決まりを明記しとけ!という話で、理屈からすればそれが最も効率よいのですが、それだと記録を残してきた各家の優位性が揺らいでしまう。

どうやら当時の貴族は、我が家こそ持ち上げたいという思惑が強い。

財力にものを言わせて、貴重な情報を独占しときたいんですね。

前述の通り、日本人ですら「歴史を学ぶなら中国の史書」とハッキリ言い切っています。それはなぜなのか?

日記は研究材料としてはもちろん貴重なのだけれども、そもそも各家が伝来させているもので、普及しにくい。相当時間が経ってから、教養として読まれます。

【史書】というジャンルとみなされていなかったのです。

昔の貴族の儀礼を読んだところで、そこから教訓を得られるのか? そんな疑念もつきまといます。

江戸時代まで「中国の歴史書すら読んでいない奴って、教養あるって言えるの?」とされてしまう背景には、そんな事情があります。

むしろ日本では、京都の雅や和様(わよう・日本式)のお手本としては『源氏物語』が重視されました。

日記類よりは流通していたし、読みやすい。

男性貴族は漢文で記録するけれども、『源氏物語』はそうではありません。

歴史や雄々しい心は、中国の史書で学ぶ。やわらかく繊細な和様の趣は、『源氏物語』で学ぶ。そんな伝統が日本には根付いていきました。

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