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【藤原兼家】
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兼通が病に倒れ、兼家復権の時代へ
しかし、最終的に藤原兼家の前に道は開けます。
貞元2年(977年)、藤原兼通が病に倒れたのです。
待っていたとばかりに参内する兼家。
見舞いかと思っていた兼通は、そうではなく素通りする兼家に対して激怒します。
よくも挨拶もなしに素通りしたな!
病床から起き出し、執念の参内を果たした兼通は、最期となる除目(じもく・任官の儀式)を敢行し、従兄の藤原頼忠を関白に指名しました。
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兼通の恨みはそれだけにとどまりません。
兼家の右大将・按察使の職を剥奪したばかりか、治部卿に格下げすると、やるべきことを成し遂げたとばかりに世を去ったのです。
困り果てた兼家は、円融天皇に長歌を献上し、釈明につとめます。
円融天皇からは「しばし待つように」との返答があったのでした。
失意の果てに
しばし待つ――これが藤原兼家に残された道でした。
関白となった藤原頼忠は、対立していた兄の兼通よりは話が通じます。
頼忠は遺恨のない兼家を、天元元年(979年)に右大臣へ昇進させると、再び政治復帰への道が開かれました。
念願だった娘の藤原詮子も入内を果たし、後の一条天皇となる懐仁親王(やすひとしんのう)も生まれ、詮子が中宮となる道すじも見えてきました。
ところが、です。円融天皇は頼忠の娘である藤原遵子(じゅんし)を中宮としてしまったのです。
兼家の心は折れました。
兄からの理不尽な妨害のせいで、関白への道が閉ざされたばかりか、中継ぎだと思っていた頼忠の娘が中宮とされるなんて……失意のあまり引きこもり、円融天皇の使いにすらろくに返答しません。
ここで困り果てたのが円融天皇でした。
永観2年(984年)7月、円融天皇は、懐仁親王に相撲節会を見せたいと、孫と共に引きこもっていたような兼家に訴えかけます。
それでも病だと応じようとしない兼家ですが、円融天皇も諦められません。
しぶしぶ参内した兼家に、円融天皇は譲歩します。
東宮(師貞親王のこと・冷泉天皇の皇子で後の花山天皇)に位を譲るとして、帝の叡慮を知ることもなく不満を訴える兼家に対し、最大限に譲歩してきたのです。
この言葉はその通りとなります。
同年8月に円融天皇が譲位し、花山天皇が即位。
そしてついに、兼家の孫である懐仁親王が東宮となったのです。
しかし、兼家の野望はあくまで関白にあります。
なかなかその座を譲ろうとしない頼忠に加えて、伊尹の子・藤原義懐(よしちか)までもが権中納言として権勢を握り、事態は複雑化。
混迷を極める政治情勢は、何かと精神が不安定とされる花山天皇によって掻き乱されてゆきます。
花山天皇は、寵愛していた女御・藤原忯子の死を受け、政治への意欲を失っていました。
兼家にとってはチャンス到来です。
三男の藤原道兼に花山天皇を連れ出させて、出家させるという荒技【寛和の変】を強行、邪魔な甥・義懐も立て続けに出家させ、いよいよ権力の掌握を盤石なものとするのです。
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花山天皇のメンタリティについては、兼家の政変を正当化するため、強調されている可能性もあるでしょう。
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