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【藤原兼家】
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天皇の祖父として、藤原氏長者となる
かくして外孫である懐仁親王が一条天皇として即位すると、藤原兼家は、天皇の外戚として大いなる権力を持ちました。
藤原氏長者となり、摂政も兼任。
しかし、権力とはそう単純なものでもありません。外戚への対抗措置として、譲位した上皇にも権威があります。
太政大臣である藤原頼忠。
円融法皇の寵臣である左大臣・源雅信。
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彼らも存命で、一条天皇も思い通りにならず……というのはあくまで兼家目線のことで、平安時代も円熟してきたこの頃になれば、外戚が思うままに操れないようにする対抗策もあったのです。
それでも兼家は止まりません。
永祚元年(989年)に円融法皇の反対を押し切って、長男・藤原道隆を内大臣に任命すると、律令制史上初となる【大臣四人制】を実現しました。
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そして藤原頼忠が亡くなると、太政大臣に就任。
永祚2年(990年)には、一条天皇の元服の際には加冠役という栄誉をつとめ、関白となります。
ただし、この職はすぐに長男の道隆に譲りました。
政治的な使命を終え、己の野望を完全に成就させた兼家は出家し、永祚2年(990年)7月2日、燃え尽きるように生涯を終えるのです。
享年62。
兼家の寵愛を受けた女性に、藤原道綱母がおります。
彼女が執筆した『蜻蛉日記』により、兼家の姿も見えてきます。
満月となるには父の奮闘も重要だった
日本史の授業では、藤原道長が全盛期を築いたと習います。
父の代となればその途中。
藤原兼家はなかなか複雑な出世街道をたどっており、真っ直ぐに権力の頂点へは到達していません。
実のところ、藤原氏が外戚として権勢を握る上でのプロセスは、同族同士で同じセオリーを使って競い合うため、どうしたって均衡します。
天皇側だって対抗策を考えているため、一朝一夕にはいかない。
いわば複雑怪奇な道であり、権力を一手に握るのは、相当難しいものとなっていました。
高貴な平安貴族といえども決して遊び呆けていたわけではなく、むしろ権力闘争の中を泳ぎ抜くことは非常に困難なことだったのです。
兼家のような父に育てられた子供たちであれば、それはもう激しい権力闘争に巻き込まれることとなります。
そんな中で、藤原道長が目をかけた紫式部はどうか。
彼女にせよ、清少納言にせよ、表向きは澄ました才女に思えるかもしれませんが、実際は嵐の中を舞う木の葉のように自らの運命を感じていたとしても無理はありません。
外戚による権力争いは、その後、混迷の極みに陥ります。
天皇と上皇という権力の二重体制が、ついには武力衝突を起こすまでになる。
そのために使われた武士が力をつけ、ついには「ムサノ世」が訪れます。
大河ドラマならば『平清盛』、そして『鎌倉殿の13人』の時代へ移ってゆくのです。
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文:小檜山青
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【参考文献】
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
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