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【武士の起源】
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馬は切り離せない武力の根源
「武士」という単語が定着した平安時代後期。
もう少し後の鎌倉幕府ができたあたりから「幕府に所属する(征夷大将軍に仕えている)人間」を武士・武家と認識する見方が主流になっていったのではないでしょうか。
また、馬も重要な要素でした。
つまり、良い馬を多く育てられる土地柄であるほど、武士が勢力を強めやすかったわけです。
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地理の授業をちょっと思い出していただきたいのですが、「◯◯平野」は近畿地方=平安京周辺にはほとんどないですよね。
もちろんあるにはありますが、当時は既にお寺が多く建てられていたり、農業に使われている土地が多く、牧畜をするには向かなかったと思われます。
馬をたくさん飼って育てるには、それ相応の土地が必要。
となると、やはり関東や東北など、大規模な平野があり、当時は開発が進んでいなかった地域が適しているということになります。
特に東北(奥州)は、昔から名馬の産地として知られていました。
奥州藤原氏の下に身を寄せていた源義経が、兄・源頼朝の元へ参陣する時、佐藤継信・忠信兄弟という武者数十騎をつけられた……というのは有名です。
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「源氏の貴種とはいえ、その時点では海の物とも山の物ともつかない義経に、数十騎つけてやってもまだ余裕があるくらい、奥州には名馬がたくさんいた」とも考えられますね。
甲斐の武田や武蔵の北条
他には、信濃の長野盆地や松本盆地などが名馬の産地でした。
平安時代に信濃・上野・甲斐・武蔵に置かれていた32ヶ所の勅旨牧(ちょくしまき・国営牧場)のうち、信濃が半数を占めていたといいます。
この四ヶ国と言えば、武田信玄に北条氏康、あるいは上杉謙信に関わってきます。
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戦国時代あたりまで有力な武士の本拠とされていたのも、元々名馬の産地だったことが大きな要因の一つでしょう。
実際、織田信長は、長篠の戦い前に武田家の騎馬隊を警戒している記述が『信長公記』にも見られたりします。
西国よりも騎馬に長けた東国の戦闘集団という認識があったのですね。
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こうして、あっちこっちで成り立ちの異なる武力を持った集団ができました。
その中には強盗や山賊・海賊など、よからぬことで生計を立てる者もいたでしょう。
平安時代に、令外の官で設置された「追捕使」などは、そういった賊に対する警察部隊として置かれ、徐々に国司や地方の豪族にその任が与えられるようになりました。
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要は、治安維持のためには、ある程度の軍事力が欠かせないワケです。当たり前ですが。
中央の公家たちも、全国に点在する荘園の管理や、地方の統治、自分の屋敷の警備などに武士を利用し始めました。
武士のほうでも公家とパイプができれば万々歳なので、ある意味win-winの関係が生まれます。
その後、平将門の乱や藤原純友の乱などの衝突はあったものの、基本的に「中央政府は皇室と公家、地方の有力者は武士」という構図ができました。しかし……。
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