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【白河上皇と院政】
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北面の武士とは? 比叡山から都を守るとは?
北面武士は、比叡山の僧侶から都を守るために設置されました。
僧侶から守る?
意味がわからない?
いや、誰しも最初はそう思うでしょう。平安京の守護たる比叡山がなぜ?というのは当たり前の疑問です。
そして答えも意外なものかもしれません。
実はこのころ比叡山の僧侶たちは、政治などに関して気に入らないことがあると、物理的に神輿を担いで突撃してくることがしょっちゅうあったのです。それを防ぐために設けられたのですね。
武士vs僧侶の物理対決というのが、いやはやなんとも。
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朝廷や皇室・公家に頼まれたわけでもないのに、僧侶が世俗のことに口を出す時点でもうね、存在意義がグラついてるんすけどね。
実際に動かれるんだから、止めるしかない、というわけで(´・ω・`)
さらに時代が降って、第82代・後鳥羽天皇の上皇時代には西面(の)武士が設けられ、院の武力が強化されていることからして、必要だったことがご理解いただけるでしょう。
上皇の周りの職には、摂関家のような有力貴族ではなく、以下のような人々が多かったようです。
なんだかここまで来ると「摂関家以外なら誰でもいい」みたいな感じがしますね。
院政を続けていたら「永久の変」勃発
さて、白河上皇中心の話に戻りましょう。
堀河天皇が若くして亡くなった後は、その皇子である鳥羽天皇が即位しましたが、これまた5歳の幼児だったため、白河上皇の院政は変わりませんでした。
実は白河上皇にはもう一人、異母弟の輔仁親王がいたのですが、この方は徹底的に冷遇されています。
輔仁親王自身は「たぶん私はもう皇太子にはなれないな」と思っていたのか、官位や親王宣下をねだったりはしていなかったようです。
しかし人柄と芸術の才に優れていたために、公家たちには「輔仁親王のほうが皇位を継ぐにふさわしい」と思う人も少なくありませんでした。
それがまた白河上皇には気に入らず、冷遇は続きます。輔仁親王は公家たちを抑えるため、自ら仁和寺付近に隠棲したそうです。
しかし、それでもゴネる公家たちがいて、なんと「鳥羽天皇を暗殺して輔仁親王を皇位につけよう」という陰謀事件「永久の変」まで起きてしまいます。
これが白河上皇方のデッチ上げによる粛清事件なのか。ガチの暗殺未遂だったのか。まだ学説が割れているようです。
にしても、なぜ、そんな物騒なことになったのか?
というと、後三条天皇の存命中に「実仁親王が即位した後は、輔仁親王を皇太子にする」ことになっていたからです。
輔仁親王を支持する公家たちからすれば、「約束を破った白河上皇の血筋を繋げていくなんてとんでもない!」となったのです。
現実には実仁親王が白河上皇より先に亡くなった=即位していないため、白河上皇が「即位してないんだから、約束を守る必要ないよね^^」と考えてもおかしくはありません。腹黒い感じはしますが。
上記の通り、実仁親王の死因も病死とされているので、(ピー)したわけではない……はずです。
皇室……天然痘……うっ頭が。
なんだかんだで道長のヤリ方に似てないか?
鳥羽天皇に皇子(白河上皇からするとひ孫)が生まれると、やはり白河上皇の意向で、皇位継承が行われました。
これが崇徳天皇です。
鳥羽天皇と崇徳天皇にはまた別の逸話+αがあったり、それをきっかけに源氏と平家が台頭してきたりするのですが、それはまた日を改めましょう。
そんなこんなで絶大な権力を持ち続けた白河上皇は仏教への信仰が厚く、多くの寺院を建立しています。
また、最愛の皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)が20歳の若さで亡くなったときは大きなショックを受け、出家しました。
白河上皇のやったことは全て「皇室が外戚の影響を受けないようにする」という目的だったといえますが、自分の血筋で皇位を独占したり、娘に先立たれたりと、道長の晩年に似たところがあるのがなんとも……。
権力者の懊悩というのは、古今東西同じようなものかもしれませんが。
何はともあれ、こうして院政は定着し、特に【白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇】の約150年間は絶対的な権力の象徴とされました。
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後鳥羽上皇が【承久の乱】によって流罪になった後、皇室や公家の政治力が一気に落ちたため、院政の印象も弱まります。
そのため、現代では「院政」というと、上記の四人の時代とほぼイコールなイメージがついているんですね。
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間に源平の合戦があったり、天皇としては高倉天皇や安徳天皇などがいるのもややこしいところです。
「道長が亡くなってから承久の乱まで」がだいたい院政の全盛期、と覚えるのが一番わかりやすいでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「院政」「白河天皇」
『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)