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【本当は怖い平安京】
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糞便まみれの平安京
9世紀から10世紀にかけて、「平中」という名で知られるモテモテ貴公子がいました。
平貞文――在原業平と並ぶ伝説的な人物ですが、今では『あぁ、あの変態か……』と思われてしまう人物です。
そっけない美女を諦めるため、あの人の出したモノを拝んでやる!
そうして彼女の排泄物を得たものの、相手は先んじてお香を練り固めたものを用意していた、そんなお話です。
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注目したいのは、平中のフェチズムではありません。
当時のトイレ事情です。
樋箱(ひばこ)という携帯式トイレに捨てていたのであり、問題は、それをどう処理するのか?ということ。
現代人ならば、トイレに流しますよね。
江戸時代ならば、便所に集めて汲み取り業者に渡す。
では当時はどうか?
というと、そのまま専用の大壺といった容器に溜めます。こうした大壺を置いた場所が「廁」となります。
藤原道長は廁から戻るとき、滑って転んで前後不覚になったことがあったとか。さぞや強烈な臭いとともに悶絶したことでしょう。
こうして集めたものは、容器を洗う担当者(宮中では御厠人・みかわやうど)がそのまま水と一緒に流します。
では庶民はどうか?
したくなったら、したい場所で、気ままに排泄していたと推察されます。
鎌倉時代も終わり頃から、人の排泄物を肥料にするようになり、以降は価格がつくようになりました。
江戸時代ですと、金銭に直結する排泄物のため、営利目的の便器があったほどで、一定の秩序ができあがっていたわけです。
しかし、平安時代は排泄物は至るところにあるとご想像ください。
牛車の牛。
騎馬の馬。
そして犬も当然のことながら排泄します。
『光る君へ』でまひろが踏んでしまったのは石ですが、排泄物を踏みつけることも当然あるでしょう。
道長が町中を歩いたことを、藤原公任が「下衆」だと語る場面もあります。確かに排泄物まみれだと想像すれば、それも納得できますよね。
平時でもこうなのだから、河川氾濫があるとそれはもう大変。
当然、疫病が発生しやすい状態となってしまいます。
食糧事情もよいとは言えず
「肥溜め」なんて言うと、現代人の目には不衛生で非文明的と映るかもしれません。
しかし、エコロジー最先端の知恵ともいえます。
排泄物が金銭価値を生み出すからこそ、集め、回収する業者が成立。
江戸時代ともなれば、衛生観念だけでなく、ビジネスとしてトイレが成立するようになっていたのです。
こうして考えてくると、気になることはありませんか。
人間の排泄物を堆肥にする前、肥料はどうしていた?
というと灰や地中で腐らせた草等を用いていたのであり、人の排泄物を堆肥にすることは、重要な進歩であったといえます。
平安時代は、その進歩にまだまだ到達できておらず、必然的に穀物の収穫量も多くはない。
白米は非常に貴重な食糧であり、庶民は雑穀を口にするしかありません。
日本人は古来より稲作をして、米を食べていたという史実は、半分正解で半分不正解と言えるでしょう。
庶民まで米を当たり前のように食べるまでには、長い歳月がかかってきた。
だからこそ人々は「五穀豊穣」を願ってきたわけです。
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野菜の種類も、当然のことながら多くはありません。
平安時代の「芋粥」はヤマイモを用いています。
意外なことに「レタス」は平安時代からありました。和名は「チシャ」です。といっても、現在の「レタス」と聞いて想像する球形ではありませんでした。
魚介類はどうか?
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、沿海部の坂東武者が魚を食べていました。
京都から見ると、あれは野蛮な話。
内陸部の京都は、新鮮な魚介類とは無縁の地域です。
父の赴任先の越前で味わったのでしょう。紫式部はイワシを好むと同時に、そのことを隠してもいました。
宮中は、地方グルメを理解できないどころか、腐敗する印象がつきまとい、オシャレな食べ物でもなかったのでしょう。
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『鎌倉殿の13人』では、坂東武者が狩りをしながら、しし鍋(イノシシ鍋)を食べていましたが、あれも京都からすれば蛮族の食文化です。
では鶏肉は?
『光る君へ』では、兼家が美しい鶏を飼育しています。
あの肉を食べるなんてとんでもない! 鶏は朝を告げる大事な存在であり、殺せば残酷だとみなされます。
肉はダメでも卵なら食べられるのか?というと、これも仏教の発展とともに避けられてゆきます。藤原実資は「卵を食べることをやめた」と『小右記』に記載していました。
漢字で「鶏」と「鳥」は別物です。
鶏はニワトリ、鳥は野鳥や小鳥の類をさします。となると、こんな発想になります。
鶏はダメでも、鳥なら食べてもいいか……と。
そのため、日本では「鳥肉」「焼き鳥」という表記をします。むしろ今は「鳥」ではなく「鶏」なのに、表記は残ってしまったのです。
ゆえに中国の人から見ると「えっ、あんな可愛い小鳥たちを焼いて食べているの?」とギョッとしてしまうとか。
現在、福島県会津地方には「会津地鶏」という名物があります。
なんでも平家の落人が連れてきた鶏の子孫だとか。
大変美味しい肉で有名ですが、平家の貴公子たちは寂しさを慰めるペットとして持ち込んだのでしょう。のちに地元の人々が、「食べたら美味しいじゃないか!」気づいたのだと思われます。
仏教が定着していた平安京では肉食が廃れる一方、乳牛はいて、醍醐等の乳製品は食べられていました。
遣唐使が派遣された唐では北方の遊牧文化を取り入れ、乳製品を食す習慣を取り入れていたので、それを輸入したのでしょう。
ちなみに中国の場合、北方は乳製品、南方は茶がメジャーな飲料でした。
日本へも茶は輸入されていますが、栽培ができなかったため普及には至りません。抹茶の普及は、鎌倉時代の栄西まで待たねばならない。
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さて、こんな食事場で、果たして十分な栄養は摂取できたのか?
というと現実的には大変厳しかったと推察できます。
そもそも味はどうなのか? ちょっと冷静に考えてみましょう。
中世の宴会は、儀式の意味もあります。
食べても美味しくないものでも、儀礼として並ぶことがあるのです。
「そんなもんめんどくさい。純粋に食べたいうまいモンだけでいいじゃない!」
こういう発想の転換はまだまだずっと先のこと。織田信長からやっと味重視へと変わりました。
日本は宮中料理が発達していない例外的な食文化圏です。
平安貴族や宮中の食卓は、洗練される前に権勢と財力が失われ、江戸時代ともなれば、公家は質素な食事となっていました。
では武士は?
というと、織田信長や豊臣秀吉は、豪華な珍味をこれみよがしに食べておりました。
徳川家康も、その後の将軍も、それなりにグルメです。
しかし徳川吉宗の時代ともなれば、財政の引き締めにかかり生活はガラリと一変。
将軍への献上品すらコスパ重視で廃止され、食事は極めて質素なものとなります。
大名や武士も同じく質素となってゆき、豪華な珍味は大商人が楽しんでいました。
江戸っ子がファストフードとして楽しむ屋台の天麩羅など、池波正太郎作品でおなじみの下町グルメも発達しています。
琉球や韓国には、華やかな宮廷料理があります。
中国の満漢全席は豪華の極み。
一方で日本は、庶民のグルメだった寿司や天麩羅が代表格ですよね。なかなか面白い食文化なのです。
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