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【藤原道雅】
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立つ鳥跡を濁して伊周は逝去
藤原伊周がいったい何をしでかしたのか?
というと、敦成親王のお祝いの席でお祝いの歌を詠む人の筆を無理やり奪い、自分と敦康親王の存在を誇示するようなことをしてしまうのです。
これでは道長以外の人も「はぁ???」としか思わないのは当然のこと。
「伊周は全く反省してないし、ほっといたら敦成親王に直接危害を加えてもおかしくない」と思われてしまったでしょう。
さらに寛弘六年(1009年)には、”伊周が彰子と敦成親王を呪詛した”という容疑がかかり、またしても処罰されてしまいました。
こちらは数ヶ月で許されましたが、恥の上塗りどころか罪の上塗りというもの。
当然、その息子である藤原道雅も余波を受けたことでしょう。
道雅本人が何もしていなくても、
「あの伊周の息子じゃ、何をしでかすかわからん」
「何かしたときに巻き込まれるだなんて勘弁」
とばかりに思われ、ろくに社交もできなかったのではないでしょうか。
しかも当の伊周は、翌年の寛弘七年(1010年)に病死しますので、後始末も十分にはできなかった可能性もありますし、息子である道雅への対応もどれだけ行えたか不明。
なんせ伊周から道雅に対する遺言がどうしようもありません。
「人に追従するくらいなら出家しろ」
道雅からすれば「いやいや、父上こそ、余計なことをする前に仏門に入ればよろしかったのに!」とでも言い返したかったのではないでしょうか。
遠慮を知る若者
もはや怒りのぶつけどころすら見失ってしまった藤原道雅。
父ほど感情的なタイプではなかったらしく、しばらくは平穏に過ごしていたと思われます。
時系列が前後してしまいますが、道雅は寛弘年間に岩清水臨時祭や道長の春日大社詣での際に舞人を務めており、普通の貴族として振る舞っているのです。
一条天皇も伊周の言動には不快感を示していたものの、道雅に対しては憐れみを感じたかもしれません。
というのも寛弘五年(1008年)2月に、春日祭使という大役を道雅に命じているのです。
このときは道雅のほうが恐縮してしまい、それでも一条天皇がゴリ押ししようとしました。
最終的には道雅が遠慮し、代官を立てて収束しています。
一条天皇としては「道雅は、伊周とは違う」ということを世間にオープンにして、それなりの地位をいずれ用意してやろうとしたのかもしれません。しかし……。
道雅にとってはありがた迷惑だった可能性もあります。
道雅は三条天皇の御代になった後、長和四年(1015年)に春日祭の東宮使を命じられたときも遠慮しているのです。
彼としては、こんな風に思っていたのかもしれません。
「もう関白になれる望みもないし、大舞台で恥をかくようなことになったら、それこそ落ちぶれてしまう。それならいっそ地味に過ごしていたほうがいい」
「荒三位」と呼ばれるほどの乱暴者
一方で、藤原道雅にも、父に似て後先考えない暴挙もありました。
関与したことが確実な暴力事件が伝わっているのです。
・道雅が、敦明親王の従者を半殺しにする
敦明親王とは、三条天皇の嫡子です。
藤原道長が自分の外孫である敦成親王(のちの後一条天皇)を東宮(≒次の天皇)にしたがったために、このときは宙ぶらりんの状態になっていました。
後に一旦東宮にはなっていますが、自らその位を降りています。
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そんなわけで、道雅も敦道親王も不遇な状態だったのですが、長和二年(1013年)、そんな二人の間で事件が起きてしまったのです。
その日、敦明親王の従者である小野為明が母后・藤原娍子への用事で、内裏の弘徽殿に参上していました。
しかしなぜか、道雅の意を受けた者たちによって為明は道雅邸に拉致され、道雅とその従者たちによってボコボコにされてしまったのです。
為明はなんとか逃げて敦明親王に訴え、敦明親王からも上に報告し、道雅らは処分されることになりました。
なぜ道雅は、こんなバカな真似をしたのか?
詳細は不明であり、理由になりそうな背景としては、以下の様な点があげられます。
・道雅は寛弘八年(1011年)に春宮権亮として敦成親王に仕えていたので、敦成親王派vs敦明親王派の対立があった
・中関白家が再興する見込みがなかった
・当時は「上級貴族が身分の低い者に暴行しても問題ない」という社会通念があった
詳しくは後述しますが、この後に道雅は敦明親王の同母妹・当子内親王と恋仲になります。
もし中関白家が没落していなければ、おそらく三条天皇は当子内親王を道雅に降嫁させることも許したでしょう。
その場合、他に問題がなければ道雅と敦明親王は義理の兄弟として力を合わせ、政治を担うこともあったかもしれません。
歴史で「たられば」を言うのは禁句とされていますが、どうしても考えてみたくなってしまいませんか。
藤原道雅の名がさらに注目されるのは、寛仁元年(1017年)のこと。
三条天皇の皇女・当子内親王との恋仲が世間にバレてしまいます。
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