同じ武士でも、時代によって随分とその姿は変わります。
例えば戦国時代の武士が主を変えることは当たり前でしたし、江戸時代中期以降の武士はどちらかというと貴族や官僚のような存在でした。
となると、平安時代末期から鎌倉時代初期あたり、武士という存在ができ始めた頃も当然違ってくるわけで。
今回注目したいのが、源平の合戦で活躍した熊谷直実です。
この方については、歴史よりも国語が好きな人のほうが覚えている名前かもしれません。
『平家物語』の「敦盛の最期」で平敦盛(あつもり)の首を取った人です。
熊谷直実 一番乗りと同時に死にかける
注目の場面は、寿永三年(1184年)の【一ノ谷の戦い】での出来事でした。
熊谷直実は、息子や一族と共に一番乗りの大功を挙げ、同時に、討ち死にしかけるというウッカリさんな一面も披露しています。
平均寿命が50歳そこらの時代に、40歳過ぎとは思えない血の気の多さですね。
「敦盛の最期」の末尾では、こんな風なことも記されております。
【直実は息子同然の年頃だった敦盛の首を取ったことで、仏教にますます傾倒するようになった】
しかし、直実が出家するのは1192年11月のことですから、1184年【一ノ谷の戦い】からはかなりの期間が過ぎています。
建久元年(1190年)には高野山で敦盛の七回忌を執り行っているので、要因のひとつではあったのでしょうけれども。
ではなぜ出家したか?
というと、意外な理由があったようです。
手足の一本や二本を覚悟していたが
平家との戦いが終わった後の熊谷直実は、源頼朝との不和や自領の相続争いなど、順風満帆とはいえない生活を送りました。
-
史実の源頼朝はいかにして鎌倉幕府を成立させたか?53年の生涯まとめ
続きを見る
そこで出会ったのが、当時、浄土宗を開いたばかりの法然。タイミングが絶妙でした。
直実は武功を挙げて出世し続けた人だけに、多くの敵将兵を殺しています。
しかも、ようやく腰を落ち着けられると思ったとたんにまた別のゴタゴタが発生。
心身共に休まらないまま人生の終わりに差し掛かり、来世が気になったのでしょう。
「私はたくさんの人を殺めましたが、極楽往生するためには今からどうしたらいいでしょうか」
そう真剣に尋ねたそうです。
法然はこれに対し、浄土宗の教え通り「今までの罪や行いに関係なく、念仏を唱えれば救われますよ」と答えます。
-
信者を一気に獲得した法然の浄土宗は何が凄い?南無阿弥陀仏を唱えれば
続きを見る
この答えを聞いた直実の泣き出し方が非常に興味深い。
「手足の一本や二本を切り落としてお詫びしなければ救われないと思っていたのに、念仏だけで救ってくださるとは、仏様はなんと慈悲深いのだろう」
中世武士といえば、殺伐とした世界で殺生など大したこと無い――なんて思いがちですが、実情は別なんですね。
殺し合いなんてできれば避けたい。
ましてや「あの世」を本気で信じていたら、余計に怖くなる。
実際、熊谷直実は、法然の答えによってはその場で切り落とすつもりだったらしく、刀を持参していたそうです。本気だったんですね。
それに気づいて法然も咄嗟にそう言ったとか……いや、想像ですけど。
法然の教えに影響を受け仏の道を歩み始め
この教えに深く感じ入った直実は、息子に家督を譲って法然に弟子入りし、法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)として仏の道を歩み始めます。
そして、浄土宗の教えを広めるべく、諸国を渡り歩いて数多くのお寺を開きました。
亡くなる間際まで法然とのやり取りは続いていたようですから、心の底から敬っていたのでしょうね。
ちなみに源平の戦で活躍したもう一人の武士・那須与一も出家したという説があります。
-
屋島の戦いで頼朝が平家に王手!那須与一扇の的は物語 鎌倉殿の13人
続きを見る
やはり浄土宗に帰依したとのことで、法然さんの人気パネェ。
与一についてはそもそも実在したかどうかがアヤシイとも言われていますが、功績を挙げた武人ほど晩年には仏教を選んだというのは興味深いですね。
これがもっと時代が下ると、
「隠居したら頭丸めるモンだろ(※でも戦もするし下半身はまだまだ現役です)」
みたいな風潮になっていくのですが。
やはり室町時代の方がさらにタフになっているんすかね。
そう考えると、江戸時代に徳川家綱〜徳川綱吉あたりの文治政治へ転換は、本当に良かったなぁと思わざるを得ないところでもあります。
-
信者を一気に獲得した法然の浄土宗は何が凄い?南無阿弥陀仏を唱えれば
続きを見る
-
屋島の戦いで頼朝が平家に王手!那須与一扇の的は物語 鎌倉殿の13人
続きを見る
長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
熊谷直実/wikipedia
那須与一/wikipedia