永享の乱

自害する足利持氏(左)と6代将軍・足利義教/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

室町幕府と鎌倉府が対立した永享の乱|足利持氏の挙兵で関東に何が起きた?

2025/02/10

室町時代は「ナントカの乱」の時代と言っても過言ではありません。

【応仁の乱】から戦国時代へ突入していくのは日本中の誰もが知っていると思われますが、実はそれ以前から物騒な事件は頻発。

今回はその一つ【永享の乱(えいきょうのらん)】に注目です。

いったい何が起きたのか?

無理やり三行でまとめてみますと以下の通り。

・永享十年(1438年)8月から翌年2月にかけて

・鎌倉公方の足利持氏が、室町幕府六代将軍・足利義教および関東管領の上杉憲実と対立

・結果として足利持氏が敗れ、鎌倉で切腹した

西と東のリーダーが揉め、永享11年(1439年)2月10日、足利持氏が切腹に追い込まれて、一応、乱の収束は見ていますが、この一件で様々な悪影響を残してしまいます。

それは一体どんなものだったか。事件全体を振り返ってみましょう。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

 


鎌倉府の長官・鎌倉公方

室町幕府は、京都に本拠地のある政権です。

『洛中洛外図屏風』に描かれた花の御所こと室町殿/wikipediaより引用

同時に、鎌倉幕府の残党が力を取り戻さないようにするためなどの目的で【鎌倉府】という支店のようなものが置かれます。

ここのトップが【鎌倉公方】で、足利尊氏の四男・足利基氏とその子孫たちが代々務めました。

そして、鎌倉公方の補佐を務めるのが【関東管領】です。

こちらはすったもんだの末、山内上杉氏と犬懸上杉氏によって世襲されています。

「山内」とか「犬懸」というのは、血統の区別のためにつけられている呼び名で、遡れば同じご先祖、要するに親戚です。

長く続いた家ほど子孫が増えて枝分かれが多くなるものであり、例えば藤原道長の子孫が二条家や九条家などに分かれていくのと同じですね。

【鎌倉府のポジション】

室町幕府(足利将軍)

鎌倉府(鎌倉公方と補佐の関東管領)

なお、歴代の鎌倉公方は以下の通り。

【歴代の鎌倉公方】

1.足利基氏

2.足利氏満

3.足利満兼

4.足利持氏

5.足利成氏

足利政知(鎌倉に入れず)第7代将軍・足利義勝の異母弟

足利成氏(鎌倉に入らず)第4代鎌倉公方・足利持氏の子

鎌倉府では、当初10カ国の軍事権を保持しておりましたが、後に行政機能も有していくことになります。

10カ国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐(後に出羽と陸奥が追加)が対象となりました。

 


六代将軍の跡目問題から始まった

では、永享の乱は何がキッカケとなって起きたのか?

発端は、足利義教の将軍継承時点に遡ります。

五代将軍・足利義量(よしかず)は跡継ぎのないまま早世し、ご隠居様だった四代将軍・足利義持がしばらく政務を行っていました。

足利義持/wikipediaより引用

しかし、義持は自分が病に倒れ、寿命が見えてきても六代将軍を指名しません。

その理由が「どうせ俺が死んだら誰も遺言なんて聞かないだろ」(超訳)という思い込みだったというのですから、諌めてくれる人はいなかったんですかね……。

構図がまるっきり両統迭立や南北朝問題の発端と同じです。

義持自身、父親である三代将軍・足利義満の政策を否定してきたからこそ、そう思ったのかもしれませんが。

そして義持が亡くなった時、存命の弟たちは全員が出家していました。

本来は、後継者問題が起きないようにするための措置ですが、今回のケースだと少々面倒な措置が必要になります。

出家した者の中から六代将軍を選ぶのであれば、還俗して髪を伸ばし、それから元服という手順で進めなければならないからです。

幼いうちからお寺に入っていると、たとえ本人が大人になっていても

【元服を済ませていない=世間的には成人していない】

と見なされてしまい、順にクリアしていく必要が出てきます。

ここに目をつけて「俺が次の将軍になれる!」と早合点したのが、ときの鎌倉公方・足利持氏。

持氏「私が将軍になりましょう!」

意気揚々と自ら立候補すると意外な答えが戻ってきます。

幕府「次の将軍は、既にクジで決めました」

持氏「は???」

足利持氏は、初代鎌倉公方・足利基氏の子孫です。

基氏は尊氏の息子ですので、持氏もれっきとした足利氏の一員。

『血筋からして、俺が将軍職に就くことは不自然ではない!』と思ったのでしょう。

さらに彼の場合は、義持の猶子になっていたことがあるので、たしかに「他に候補者がいなければ将軍の座が回ってくる」という可能性も否定できませんでした。

しかし、義持が亡くなった後、幕府の中枢たちは「義持様のご子息たちからクジで決めて、当たった人に還俗してもらおう」ということで一致。

実際、石清水八幡宮でクジを引き、六代将軍に選ばれがのが足利義教です。

足利義教/wikipediaより引用

クジというのはあくまで出来レースであり、形式上、神託を仰ぐということにして、最初から六代将軍は義教に決まっていた――そんな見方も根強いというか、その方が自然ですが、永享の乱に大きくは関係ないので割愛しますね。

問題は持氏です。

「将軍宣下まだかなー♪まだかなー♪」

ウキウキしていた持氏は、

「次の将軍は義教様に決まりました」

という知らせを聞いて勝手にマジギレ。完全にへそを曲げてしまいます。

 

子供並みにゴネ続ける持氏

将軍になれると思っていたのに、直前で落選――。

ならば出直して再起をうかがうか、あるいは別の路線で頑張るしかない……と前向きに捉えられないのが、身内争いの絶えない源氏のサガなんでしょうか。

足利持氏はこの後、徹底的に子供じみた行動をすることになります。

「義教の将軍就任祝いを贈らない」

そんな地味な嫌がらせから始まり、「永享」への改元に応じず「正長」を使い続けたり、本来は将軍が決める鎌倉五山(特に権威がある鎌倉の五つの禅寺)の住職を勝手に決めてしまったり。

目に見えて「義教が将軍だなんて認めん!俺が本当の将軍だ!!」という態度を取り始めたのです。子供か。

鎌倉府でも「マズイですよ……」と諌める人はいました。

その代表格がときの関東管領・上杉憲実(のりざね)です。

上杉憲実像/wikipediaより引用

ところが持氏は、憲実の忠告に耳を傾けません。

多くの場合、こうしたサポート役のほうが主人よりも年長者ですが、鎌倉府については諸々の事情で憲実のほうがだいぶ年下でした。

また、関東管領が将軍から直接任命される(上杉氏の世襲を将軍が認定するような感じだった)という慣例も気に入らなかったのか、持氏は憲実から諫言されるたびに怒りを燃やしていきます。

「忠言耳に逆らう」という言葉がある通り、こういうときに諫言してくれる家臣こそ大事にしないといけないんですけどね。

いつの時代もこうした状況は難しいものです。

 


上杉氏自体が気に入らない持氏

持氏は幼少の頃から、憲実の先々代の関東管領・上杉禅秀(氏憲)に後見されていました。

そのため「上杉氏は家臣のくせに俺の頭を押さえつけるいけ好かない家」という印象を持っていたかもしれません。

氏憲も氏憲で、関東の有力武士を結集し、鎌倉府を半ば以上乗っ取ろうとして幕府方の武士に討伐されているので、どっちもどっちなんですけどもね。

その戦いは【上杉禅秀の乱】と呼ばれ、以下に関連記事がございます(本記事の末尾にリンクもございます)。

上杉禅秀の乱
上杉禅秀の乱で関東に何が起きた?犬懸上杉家は没落し足利持氏は生き残る

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この辺、名字が同じなのでややこしいのですが、禅秀は上杉氏のうち「犬懸家」という系統で、憲実は本家にあたる「山内家」の人です。

枝分かれしたのがだいぶ前のことなので、この時点では「同じ名字の遠い親戚」くらいの感覚でしょうか。

余談ながら、上杉氏は足利尊氏の母方の実家、かつ高師直の妻の実家でもあります。

かつて足利尊氏の肖像画とされ、近年、高師直だという説が根強くなった『守屋家旧蔵本騎馬武者像』/Wikipediaより引用

将軍家の親戚なので、前述のように上杉氏の家督について将軍が口を出すわけですね。

ちなみに、もっと血筋を遡ると藤原北家(藤原冬嗣六男・良門/道長よりずっと前の時代の人)に行き着きます。

さらに余談ですが、良門の子孫の一人が紫式部です。つまり紫式部と上杉氏はめちゃくちゃ遠い、一応の親戚というわけです。

貴種の世界の狭さが垣間見えますね。

 

足利義久を名乗る 最強の愚策

閑話休題。

そんなわけで足利持氏は、幕府や上杉氏に対してどんどん反発心を強めていきます。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

上杉禅秀の乱も幕府からの援軍のおかげで収められたも同然だったのに、余計なことして恩着せやがって!とでも思ったのでしょうか。

そもそも、鎌倉府は幕府の代わりに東日本を統治すべき場所です。

幕府との対立は本末転倒――上杉憲実はそこも含めて、持氏への諫言を繰り返しました。

持氏が「信濃の小笠原氏が俺に逆らうから討伐するわ」と言い出すと、憲実が「信濃は鎌倉府の担当ではなく、将軍直轄地なのでおやめください!」と止めています。

それでも持氏は当初聞き入れようとせず、憲実は強硬手段として鎌倉から藤沢へ移動してやっと止まりました。

鎌倉から信濃を攻めようとすれば諏訪が被害を受ける可能性も高いので、諏訪大社の神罰を恐れたのかもしれません。

持氏も小さなことでは諫言を受け入れたことがありましたが、それ以上にマズイ言動を繰り返していきます。

例えば、持氏の嫡子・賢王丸の元服の際に

「足利義久」

という名をつけたのです。

キラキラネームでもなく、一見、普通の名前のように見えますよね。

しかし、実はこれが大問題でした。

 

足利義久に続き八幡太郎

前述の通り、鎌倉公方は将軍家の親戚なので「男子の元服にあたっては将軍から偏諱を受ける」という慣習があります。

この場合は将軍の名前が「義教」でしたので「教」の字をもらって「教◯」と名乗るのが順当なところです。

鎌倉公方家では「氏」が通字のような扱いでしたので、例えば「教氏」なんかも妥当でしょう。

一方で「義」の字は足利本家の通字であります。

鎌倉公方として適切ではありませんし、更には、義久の通称として源氏のご先祖様である源義家を示す「八幡太郎」の名までつけようとしたのです。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

これでは将軍家と同格であることをアピールしながら「何かあったらウチの息子が次の将軍になる!」と言っているも同然。

当然、経緯を知った6代将軍・義教は激怒します。

何かあれば容赦しない将軍として知られ「万人恐怖」とも恐れられた義教。

元は延暦寺の座主までのぼりつめた義教。

持氏が色々と反発していた時期には、古巣の延暦寺とも真っ向から対立し、山門使節四人を処刑した後でした。

「今度の将軍は、何かあれば容赦しないな……」

そんな義教の姿勢は鎌倉府にもハッキリ伝わっていたことでしょう。

持氏が高をくくっていたのか。わかっていても、なお反抗したのか。上杉憲実以下の鎌倉府で働く人々は気が気じゃなかったはず。

後世から見ると「そんなアホ、とっとと幕府に告発してクビにしてもらえばいいじゃん」と思ってしまいますが、憲実は性格的にも実に生真面目で、さらに儒教に傾倒していたため、どんなに無能な主君でも手荒な真似はしたくなかったようです。

 

永享の乱 勃発!

上杉憲実はせめてもの抵抗として

義久の元服式に出ない

という選択をすることにしました。

口で言うだけでも通じないから、元服式を欠席して行動で示してみよう――そう考えたようですが、式の前から「持氏様は日頃からウザイ憲実を、今度こそ始末するつもりだ」という噂もあったとか。

そして、ついに持氏は「あの野郎、俺の倅(せがれ)の大切な日にサボるとはどういう了見だ!」とブチ切れ、兵を出そうとします。

一方の憲実は、自身の予想とは異なる展開に「かくなる上は腹を切ってお止めするしかない」と切腹の準備を始める始末。

これは近習たちに止められて思いとどまります。

その代わり憲実は、上杉氏の本拠である上野(現・群馬県)へ引き上げました。

同時に、室町幕府へ事の次第を知らせる使者を出したようです。

後世では、この時点で【永享の乱】が勃発したと見なされています。

 

本拠の鎌倉府で部下に裏切られ

時を同じくして足利持氏も動き始めました。

一色直兼に憲実討伐を命じ、自分も武蔵へ出陣。

鎌倉府は三浦時高(鎌倉時代の御家人だった三浦氏の傍流子孫)に預けています。

一報を京都で聞いた将軍・義教は当然のことながら激怒。

「あの野郎、ついにやりやがったな! 憲実を討つなどとんでもない、むしろ持氏を討つべきだ!!」

そして持氏討伐のため、駿河の今川範忠、甲斐の武田信重、信濃の小笠原政康の三人へ出兵を命じました。

ここで信濃の小笠原氏が出てくるあたり、やはり憲実の諫止が正しかったことがわかりますね。

主に相模を戦場とし、幕府方と持氏方は激しく戦いました。

戦況としては一勝一敗といった構図。

持氏はこれを聞き、武蔵から相模に陣を移して幕府軍を迎え撃とうとします。

しかし、その直後に鎌倉府の留守を預けていたはずの時高が「もう持氏様についていけない……幕府方につこう」と覚悟を決め、一度、地元の三浦に戻ってから鎌倉へ攻め込んでしまいました。

三浦は「留守を任せた相手に裏切られるってどんな気分?笑」みたいな態度を取るところでしょう。

しかし前述の通り、憲実はとても律儀な人だったので、そんなことはありませんでした。

 

散り散りに逃げ出して

鎌倉府側は大混乱に陥ります。

義久と鎌倉公方家の親戚にあたる足利満貞は報国寺へ。

義久の弟である安王丸・春王丸は下野日光山へ。

もう一人の弟(持氏の末っ子)・永寿王丸は甲斐を経て信濃へ。

散り散りに逃げ出しました。

名前からもわかる通り、義久以外は元服前の少年たちです。

順当に行けば次代以降の鎌倉公方なり、由緒あるお寺の住職なり、将軍家に男子が生まれなかった場合に養子入りするなり、血筋に恥じない立場に収まれていたはずなのですが……トーチャンのせいで大迷惑ですね。

こうなると当事者である憲実がずっと傍観しているわけにもいかなくなり、越後・上野の兵を率いて、武蔵の分倍河原まで出陣しました。

しかし積極的に持氏の首を取ろうとはせず、差し向けられた軍を追い返すに留めています。

それから半月ほどして、憲実の重臣で鎌倉付近まで兵を率いていた長尾忠政が、鎌倉へ帰ろうとしていた持氏と、葛原(現在の神奈川県藤沢市)でばったり出くわしました。

さすが憲実の家臣というべきか、忠政は力ではなく言葉で持氏を説得し、幕府軍へ降参するよう促しました。

事ここに至って、持氏もやっと状況を冷静に受け止め、称名寺(横浜市金沢区)で出家=降伏を選びます。

さらに持氏方の一色直兼と上杉憲直を処分(という名の自害命令)することを約束し、数日のうちにそれを実行しました。

憲実に反発しまくった持氏が、なぜ忠政の言うことをあっさり聞いたのかはよくわかりませんが、忠政はいわゆる文武両道タイプだったようなので、弁も立ったのでしょう。

あるいはタイミングの問題でしょうか。

 

余波が続いた結果

上杉憲実もこれに安堵し、足利持氏親子の助命を足利義教に頼んだのですが……将軍・義教は同意しません。

「持氏を徹底的に追い詰めろ!どうしてもイヤだと言うなら、お前もまとめて始末してやる!」といった感じで半ば以上脅迫をし、憲実はにっちもさっちもいかなくなります。

まあ、義教からすれば以前も家臣に背かれたことのある持氏を許す理由はないですしね。

憲実はかなり逡巡したようです。

しかし結局は将軍に逆らいきれず、永安寺(東京都世田谷区)に移されていた持氏を攻めて自害へ追い込みました。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

報国寺にいた義久と重臣たちも後を追い、これにて【永享の乱】は終わりを告げます。

戦の余波は、しばらく続きました。

鎌倉から脱出した持氏の息子たち安王丸・春王丸・永寿王丸が結城氏朝の元へ身を寄せ、結城城(茨城県結城市)に立てこもり【結城合戦】が始まるのです。

結局幕府と山内上杉家の軍に攻め込まれ、安王丸と春王丸は美濃垂井で斬罪。

しかし、末っ子の永寿王丸の番になろうというところで【嘉吉の乱(1441年)】が起き、6代将軍の足利義教が殺されたため、彼は命を取り留めました。

そして永寿王丸は宝徳元年(1449年)に新たな鎌倉公方へ任じられ、将軍・義成(後の足利義政)の一字をもらって足利「成氏」と名乗るようになります。

あとは持氏の旧臣にあたる大名たちが成氏に仕え、鎌倉府が再興となるはずだったのですが……。

足利成氏は、憲実の子孫及び親戚である山内上杉家・扇谷上杉家と対立していきます。

成氏からすれば、上杉氏は父の仇ともいえる存在なので恨むのは仕方ないことです。

しかし、そもそもが持氏の勘違いと逆恨みを膨らませたのが原因なんですよね。

当時幼い子供だった成氏がその事情を詳しく知っていたかどうか不明ですが、誰か良からぬことを吹き込んだ者がいたのかもしれません。

この対立が【享徳の乱】へとつながり、さらには鎌倉府の機能停止&関東の群雄割拠→戦国時代突入という流れを生み出すことになります。

恨みつらみは当事者の代で解決しておかないと、本当にロクなことになりません。


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長月 七紀・記

【参考】
渡邊大門『戦乱と政変の室町時代』(→amazon
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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