室町時代は「ナントカの乱」の時代。
皆さんご存知のとおり【応仁の乱】から戦国時代へと突入していくワケですが、それ以前から物騒な事件は頻発しており、いったい「幕府ってなんのためにあったの?」とアタマを抱えざるを得ません。
今回、注目するのはその一つ【永享の乱(えいきょうのらん)】。
まずは無理やり一行でまとめてみますと……。
そんな事件です。
何がどうしてそんなことになったのか。順を追って見てみましょう。
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鎌倉府の長官・鎌倉公方
もともと室町幕府は京都を本拠とした政権です。
同時に、鎌倉幕府の残党を含めた東日本を統治するため、【鎌倉府】という支店のようなものを置きました。
ここのトップが【鎌倉公方】で、足利尊氏の四男・足利基氏とその子孫たちが代々務めています。
そして、その補佐を務めるのが【関東管領】です。
【鎌倉府のポジション】
室町幕府(足利将軍)
│
鎌倉府(鎌倉公方と補佐の関東管領)
関東管領はすったもんだの末、山内上杉氏と犬懸上杉氏によって世襲されていました。
この「山内」とか「犬懸」は血統の区別のためにつけられている呼び名で、遡れば同じご先祖にたどり着きます。
当時は、子孫が増えて枝分かれが多くなるので、ままある話ですね。
【歴代の鎌倉公方】
1.足利基氏
2.足利氏満
3.足利満兼
4.足利持氏
5.足利成氏
足利政知(鎌倉に入れず)
足利成氏(鎌倉に入らず)
なお、鎌倉府は、当初10カ国の軍事権を保持しておりましたが、後に行政機能も有していくこととなります。
※10カ国……相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐(後に出羽と陸奥が追加)
六代将軍の跡目問題から始まった
さて、永享の乱の発端は、足利義教の将軍継承時点に遡ります。
五代将軍・足利義量(よしかず)が跡継ぎのないまま早世したため、ご隠居様だった四代将軍・足利義持がしばらくの間政務を行っていました。
※以下は足利義持の関連記事となります
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しかし、義持は自分が病に倒れて寿命が見えてきても、六代将軍を指名しません。
その理由が「どうせ俺が死んだら誰も遺言なんて聞かないだろ」(超訳)という思い込みだったのですから、どうにもならん。
義持自身、父親である三代将軍・足利義満の政策を否定してきたからこそ、そう思ったのかもしれませんね。
「やったらやり返される」って、自業自得なんですけど。
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当時、義量以外の義持の息子たちは全員出家していました。
その中から六代将軍を選ぶのであれば、還俗して髪を伸ばし、それから元服……と、かなりメンドー。
こういう場合、幼いうちからお寺に入っているため、成長しても【元服を済ませていない=世間的には成人していない】とみなされてしまうので、そこからクリアしないといけなかったんですね。
ここに目をつけて「俺が次の将軍になれる!」と早合点したのがときの鎌倉公方・足利持氏でした。
石清水八幡宮のクジで義教に決定!
足利持氏は、当然ながら初代鎌倉公方・足利基氏の子孫です。
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れっきとした足利氏の一員ですから『将軍職に就くことは不自然ではない』と思ったのでしょう。
さらに彼の場合は、義持の猶子になっていたことがあるので、他に候補者がいなければ将軍の座が回ってくる可能性もたしかに捨てきれませんでした。
しかし……。
義持が亡くなった後、幕府の中枢たちは
「義持様の息子さんたちからクジで決めて、当たった人に還俗してもらおう」
ということで一致。
実際、石清水八幡宮でクジをひき、足利義教が六代将軍に選ばれました。
クジというのはあくまで出来レースであり、形式上、神託を仰ぐということにして、本当は最初から義教に決まっていた――。
そんな見方も根強い(というかその方が自然)ですが、そこは永享の乱にあんまり関係ないので割愛しますね。
「将軍宣下まだかなー♪まだかなー♪」
そうゴキゲンだった持氏は、この知らせを聞いて「(゚Д゚)ハァ?」とマジギレ。完全にへそを曲げてしまうのでした。
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