足利持氏自害の図/wikipediaより引用

鎌倉・室町

永享の乱とは?鎌倉公方・足利持氏が1438~39年に切腹へと追い込まれ

禅秀を始末したというのは、幕府と幕府方の武士に感謝してしかるべきなんですけども
「ほっといてくれても俺が自分でなんとかできたのに! 余計なことして恩着せやがって!」
とでも思ったのでしょうか。

そもそも、鎌倉府は幕府の代わりに東日本を統治すべき場所です。
幕府との対立は本末転倒。
上杉憲実はそこを含めて持氏へ諫言を繰り返しました。

足利公方邸 旧蹟/photo by Urashimataro wikipediaより引用

持氏も、小さなことでは諫言を受け入れたこともありましたが、それ以上に持氏はマズイ言動を繰り返していきます。

例えば、持氏の嫡子・賢王丸の元服の際、「足利義久」という名をつけました。
キラキラネームでもなし、一見問題ないように見えますが、これが問題オオアリです。

鎌倉公方は将軍家の親戚なので、
「男子の元服にあたっては将軍から偏を受ける」
という慣習がありました。

この場合は将軍の名前が「義教」なので、「教」の字をもらって「教○」と名乗るのが順当なところです。

また、「義」の字は足利本家の通字でもありました。
この時点までの鎌倉公方では、「義」の字をつけていた人はおらず、「氏」が通字扱いになっています。

さらに、義久の通称として源氏のご先祖様である源義家を示す「八幡太郎」の名までつけようとしたのです。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

自分の息子に「義」の字をつけたということは、「ウチは将軍家と同格だし、何かあったらウチの息子が次の将軍になるから!」と言っているも同然。

回りくどくてめんどくさい話ですが、中世までのゴタゴタってこういう細かいところから
【不仲→小競り合い→全面対決】
というパターンが多いんですよね……。

 

「今度の将軍は、何かあれば容赦しない!」

繰り返しますが、当時の将軍はあの義教です。

元は延暦寺の座主までのぼりつめた義教。
このころ古巣の延暦寺とは真っ向から対立し、山門使節四人を処刑した後でした。

「今度の将軍は、何かあれば容赦しない!」
そんな姿勢は、遠く離れた鎌倉府にもハッキリ伝わっていたことでしょう。

持氏が高をくくっていたのか。
わかっていてもなお反抗したのか。

いずれにせよ、上杉憲実以下の鎌倉府で働く人々は気が気じゃなかったはずです。

後世から見ると「そんなアホ、とっとと幕府に告発してクビにしてもらえばいいじゃん」と思ってしまいますが、憲実は性格的にも実に生真面目で、さらに儒教に傾倒していたため、どんなにアレな主君でも手荒な真似はしたくなかったようです。
これがぐう聖か。

 

ついに永享の乱が勃発!

憲実は、義久の元服式に出ませんでした。

「口で言うだけでは持氏様は考え直してくださらない。元服式を欠席して、行動で示してみれば……」
と考えたそうですが、式の前に
「日頃、ウザイ憲実を、持氏様は今度こそ始末するつもりだ」
という噂もあったそうです。

そして、ついに持氏は
「あの野郎、俺の倅(せがれ)の大切な日にサボるとはどういう了見だ! ブッコロ!!」
とブチ切れ、兵を出そうとします。

上杉憲実、大ピンチ。
自身の予想とは異なる展開に「かくなる上は腹を切ってお止めするしかない」と切腹の準備を始める始末です。

近習たちに止められて思いとどまりますが、その代わり憲実は、上杉氏の本拠だった上野(現・群馬県)へ引き上げます。
同時に、室町幕府へ事の次第を知らせる使者を出したようです。

後世では、この時点で【永享の乱が勃発】したと受け止められています。

 

本拠の鎌倉府で部下に裏切られ

足利持氏も動き始めました。

鎌倉府を三浦時高(鎌倉時代の御家人だった三浦氏の傍流子孫)にあずけ、自らは武蔵へ出陣。
この一報を京で聞いた将軍・義教は「あの野郎、ついにやりやがったな! ブッコロ!!!」と激怒し、持氏討伐のため駿河・甲斐・信濃の大名へ出兵を命じました。

彼らは主に相模で持氏方の軍と戦い、一勝一敗といった構図になります。

持氏はこれを聞き、武蔵から相模に陣を移して幕府軍を迎え撃とうとしました。

が、その直後に鎌倉府の留守を預けていたはずの時高が「もう持氏様についていけない……幕府方につこう」と覚悟を決めて、一度地元の三浦に戻ってから鎌倉へ攻め込んでしまいます。

意地の悪い人であれば
「留守を任せた相手に裏切られるってどんなきもち? ねえどんなきもち??^^」
みたいな態度を取るところですが、前述の通り憲実はとても律儀な人だったので、そんなことはありません。

一方、鎌倉府は当然のことながら大慌てです。

義久と鎌倉公方家の親戚にあたる足利満貞は報国寺。
義久の弟である安王丸・春王丸は下野日光山。
もう一人の弟・永寿王丸は甲斐を経て信濃へ。
散り散りに逃げていきます。

彼らは全員、元服前の少年たちだったんですが……トーチャンのせいで大迷惑ですね。

このとき上杉憲実は、越後・上野の兵を率いて、武蔵分倍河原まで出陣しました。
積極的に持氏の首を取ろうとはせず、先陣としてやってきた軍を追い返すに留めています。

それから半月ほどして、憲実の重臣で鎌倉付近まで兵を率いていた長尾忠政が、鎌倉へ帰ろうとしていた持氏と葛原(神奈川県藤沢市)でばったり出くわします。

忠政は持氏を説得し、幕府軍へ降参するよう促しました。

事ここに至って、持氏もやっと状況を冷静に受け止め、出家を決意。
さらに持氏方の一色直兼と上杉憲直を処分(という名の自害命令)することを約束し、数日のうちにそれを実行しました。

忠政はいわゆる文武両道タイプだったようだから、弁も立ったのでしょう。

 

余波は続き結城合戦に繋がる

憲実もこれに安堵し、持氏親子の助命を義教に頼んだ……のですが……が、果断がモットーの義教は同意しません。

「持氏を徹底的に追い詰めろ! どうしてもイヤだと言うなら、お前もまとめて始末してやる!」
と、半ば以上脅迫をし、憲実はにっちもさっちもいかなくなります。

かなり逡巡の末、結局は将軍に逆らいきれずに出兵。
持氏と義久、その近臣たちは自害し、これにて【享徳の乱】は終わりを告げました。

余波は、しばらく続きました。

鎌倉から脱出した持氏の息子たち安王丸・春王丸・永寿王丸が結城氏朝の元へ身を寄せ、結城城に立てこもり「結城合戦」が始まります。

現在の地名では岐阜県不破郡垂井町。関が原の近くです。

幕府と山内上杉家の軍に攻め込まれ、安王丸と春王丸は美濃国垂井で斬罪。
しかし、末っ子の永寿王丸の番になろうというところで【嘉吉の変】が起き、彼は命を取り留めました。

そして結城合戦から宝徳元年(1449年)に新たな鎌倉公方へ任じられ、将軍・義成(後の足利義政)の一字をもらって成氏と名乗るようになります。

あとは持氏の旧臣にあたる大名たちが成氏に仕え、鎌倉府が再興となるはずだったのですが……。

成氏は、憲実の子孫及び親戚である山内上杉家・扇谷上杉家と対立してしまうのです。
いわば敵対関係が継承されてしまったんですね。

成氏からすれば、上杉氏は父の仇だから仕方ないのですけれども、そもそもが持氏の勘違いと逆恨みを極まらせたのが原因です。
子供だった成氏がその事情を知っていたかどうか不明ですが。

この対立が【享徳の乱】へとつながっていきます。

恨みつらみは当事者の代で解決しておかないと、本当にロクなことになりません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「永享の乱」
永享の乱/wikipedia

 



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