永享の乱

自害する足利持氏(左)と6代将軍・足利義教/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

室町幕府と鎌倉府が対立した「永享の乱」足利持氏の挙兵で関東に何が起こった?

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本拠の鎌倉府で部下に裏切られ

時を同じくして足利持氏も動き始めました。

一色直兼に憲実討伐を命じ、自分も武蔵へ出陣。

鎌倉府は三浦時高(鎌倉時代御家人だった三浦氏の傍流子孫)に預けています。

一報を京都で聞いた将軍・義教は当然のことながら激怒。

「あの野郎、ついにやりやがったな! 憲実を討つなどとんでもない、むしろ持氏を討つべきだ!!」

そして持氏討伐のため、駿河の今川範忠、甲斐の武田信重、信濃の小笠原政康の三人へ出兵を命じました。

ここで信濃の小笠原氏が出てくるあたり、やはり憲実の諫止が正しかったことがわかりますね。

主に相模を戦場とし、幕府方と持氏方は激しく戦いました。

戦況としては一勝一敗といった構図。

持氏はこれを聞き、武蔵から相模に陣を移して幕府軍を迎え撃とうとします。

しかし、その直後に鎌倉府の留守を預けていたはずの時高が「もう持氏様についていけない……幕府方につこう」と覚悟を決め、一度、地元の三浦に戻ってから鎌倉へ攻め込んでしまいました。

三浦は「留守を任せた相手に裏切られるってどんな気分?笑」みたいな態度を取るところでしょう。

しかし前述の通り、憲実はとても律儀な人だったので、そんなことはありませんでした。

 


散り散りに逃げ出して

鎌倉府側は大混乱に陥ります。

義久と鎌倉公方家の親戚にあたる足利満貞は報国寺へ。

義久の弟である安王丸・春王丸は下野日光山へ。

もう一人の弟(持氏の末っ子)・永寿王丸は甲斐を経て信濃へ。

散り散りに逃げ出しました。

名前からもわかる通り、義久以外は元服前の少年たちです。

順当に行けば次代以降の鎌倉公方なり、由緒あるお寺の住職なり、将軍家に男子が生まれなかった場合に養子入りするなり、血筋に恥じない立場に収まれていたはずなのですが……トーチャンのせいで大迷惑ですね。

こうなると当事者である憲実がずっと傍観しているわけにもいかなくなり、越後・上野の兵を率いて、武蔵の分倍河原まで出陣しました。

しかし積極的に持氏の首を取ろうとはせず、差し向けられた軍を追い返すに留めています。

それから半月ほどして、憲実の重臣で鎌倉付近まで兵を率いていた長尾忠政が、鎌倉へ帰ろうとしていた持氏と、葛原(現在の神奈川県藤沢市)でばったり出くわしました。

さすが憲実の家臣というべきか、忠政は力ではなく言葉で持氏を説得し、幕府軍へ降参するよう促しました。

事ここに至って、持氏もやっと状況を冷静に受け止め、称名寺(横浜市金沢区)で出家=降伏を選びます。

さらに持氏方の一色直兼と上杉憲直を処分(という名の自害命令)することを約束し、数日のうちにそれを実行しました。

憲実に反発しまくった持氏が、なぜ忠政の言うことをあっさり聞いたのかはよくわかりませんが、忠政はいわゆる文武両道タイプだったようなので、弁も立ったのでしょう。

あるいはタイミングの問題でしょうか。

 


余波が続いた結果

上杉憲実もこれに安堵し、足利持氏親子の助命を足利義教に頼んだのですが……将軍・義教は同意しません。

「持氏を徹底的に追い詰めろ!どうしてもイヤだと言うなら、お前もまとめて始末してやる!」といった感じで半ば以上脅迫をし、憲実はにっちもさっちもいかなくなります。

まあ、義教からすれば以前も家臣に背かれたことのある持氏を許す理由はないですしね。

憲実はかなり逡巡したようです。

しかし結局は将軍に逆らいきれず、永安寺(東京都世田谷区)に移されていた持氏を攻めて自害へ追い込みました。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

報国寺にいた義久と重臣たちも後を追い、これにて【永享の乱】は終わりを告げます。

戦の余波は、しばらく続きました。

鎌倉から脱出した持氏の息子たち安王丸・春王丸・永寿王丸が結城氏朝の元へ身を寄せ、結城城(茨城県結城市)に立てこもり【結城合戦】が始まるのです。

結局幕府と山内上杉家の軍に攻め込まれ、安王丸と春王丸は美濃垂井で斬罪。

しかし、末っ子の永寿王丸の番になろうというところで【嘉吉の乱(1441年)】が起き、6代将軍の足利義教が殺されたため、彼は命を取り留めました。

そして永寿王丸は宝徳元年(1449年)に新たな鎌倉公方へ任じられ、将軍・義成(後の足利義政)の一字をもらって足利「成氏」と名乗るようになります。

あとは持氏の旧臣にあたる大名たちが成氏に仕え、鎌倉府が再興となるはずだったのですが……。

足利成氏は、憲実の子孫及び親戚である山内上杉家・扇谷上杉家と対立していきます。

成氏からすれば、上杉氏は父の仇ともいえる存在なので恨むのは仕方ないことです。

しかし、そもそもが持氏の勘違いと逆恨みを膨らませたのが原因なんですよね。

当時幼い子供だった成氏がその事情を詳しく知っていたかどうか不明ですが、誰か良からぬことを吹き込んだ者がいたのかもしれません。

この対立が【享徳の乱】へとつながり、さらには鎌倉府の機能停止&関東の群雄割拠→戦国時代突入という流れを生み出すことになります。

恨みつらみは当事者の代で解決しておかないと、本当にロクなことになりません。


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長月 七紀・記

【参考】
渡邊大門『戦乱と政変の室町時代』(→amazon
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

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