尊氏の側近として鎌倉幕府を倒すのに多大な功績をあげており、武将としても優秀でした(楠木正成の息子にも勝っている)。
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足利尊氏は情緒不安定なカリスマ将軍?生誕から室町幕府までの生涯
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それがどうして本連載「日本史ワル査定」の対象に?
理由は、今までの価値観を軽視するだけにとどまらず、権力を握って横専を働き、そしてここからが大事なのですが「笑えるぐらいの女好き」だったのです。
早速、ワル査定して参りましょう。
なお、当人の功績については以下に別記事がございますので、併せてご覧いただければ幸いです(記事末にもリンクあり)。
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高師直は室町幕府設立の立役者なれど 最期は無残な殺され方だった?
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両統迭立から南北朝へ 尊氏は室町幕府を開く
ときは鎌倉末期。
皇室の跡目争いが盛んになり、調停に入った鎌倉幕府は『大覚寺統と持明院統から10年交代で天皇出してね』という策を打ち出しました。
いわゆる「両統迭立」というやつですね。
以下の通り、後嵯峨天皇の後に【大覚寺統(南朝)】と【持明院統(北朝)】に分かれるのですが、問題は後醍醐天皇のときです。
天皇を続けたくなった大覚寺統の後醍醐天皇は、足利尊氏などを使って鎌倉幕府を倒幕。
しかし、後醍醐天皇の政治(建武の新政)は公家優先で武士たちの不評が募り、最終的には仲違いした尊氏に対して討伐令を出すようになります。
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後醍醐天皇の何がどう悪かった?そしてドタバタの南北朝動乱始まる
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一方の尊氏は、後醍醐天皇と対立する持明院統の上皇に宣旨をもらいました。
『こっちも官軍だ!』として天皇を擁立したのです。これが北朝ですね。
んでもって吉野に逃げた後醍醐天皇も負けじと『いやいや、こちらが天皇だ!』と南朝を成立したのが、南北朝時代の始まりでした。
鎌倉時代からくすぶっていた両統迭立が、その崩壊によって、一気に噴出したんですね。
そんな状況の中、北朝の天皇から征夷大将軍の任を頂き、尊氏が開いたのが室町幕府です。
かなりザックリとした説明ですが、流れとしては大きくは間違っていないでしょう。
きまじめ直義ブッチキレ! 兄弟喧嘩がおっ始まる
室町幕府の成立には、尊氏の弟・足利直義も多大な貢献をしておりました。
将軍・尊氏さんはカリスマ性はありますが、わりとノホホンとした性格で実務には向いておらず、しっかり者で真面目な弟が政治部分を担当していたのです。
別に南北朝の体制に合わせたワケではないでしょうが、足利も二頭体制だったんですね。
実際、足利幕府もここまでは問題なかったのです。
ヤバいのは、これまた幕府成立に多大なる功績のあった高師直が口出しするようになってから。
直義と師直の関係は急速に悪化し、遂には尊氏vs直義の壮大な兄弟喧嘩の引き金となってしまいます。
どんだけ凄まじかったって、直義が南朝側に裏切ってしまうほどの仲違いで、後に【観応の擾乱】と呼ばれるほど激しい兄弟喧嘩権力闘争でした。
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尊氏vs直義 史上最大の兄弟ゲンカ「観応の擾乱」の結末は毒殺か
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問題は、高師直がここで行った悪行です。
マジメな直義は、師直の横暴さに耐え切れなくなったのですが、一体、どんなことをしたのか?と申しますと……。
・配下の者から恩賞が足りないと言われたら?
→You、近くの公家や寺から奪っちゃいなYO!
・悪いことして領地を没収された……と子飼いの武士に言われると
→見て見ぬふりしとくから、将軍家は無視して領地にしとけ!
とまぁ、権力・武力を背景に好き放題やるのです。
さらには皇室に対しても不敬の極み発言をしでかします。
・「京都に王(天皇)とか居るけど面倒くせー。どうしても王が必要なら木か金属かで作って、ミカドはどこかに流し捨てればいいじゃん」
いくら700年ほど前の話でも、畏れ多すぎてツッコミできまへん。
師直の悪行は、南朝を攻めた際にも色々とやらかしております。
まずは……。
・男山八幡を焼き払う
寺社仏閣が崇拝されていた時代に、これもかなりの悪業でした。
かように倫理観から外れたことをする武将を『バサラ大名』と呼びぶのは豆知識として覚えておくとよいでしょう。
では本日のメインデッシュ『女好き』に注目してみましょう。
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