大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で源頼朝と北条政子の間に生まれた男児・源頼家。
史実では、後の鎌倉幕府二代将軍になりますが、ドラマでは何かと「不吉な話」ばかりが強調されていましたよね。
あれは何故なのか?
先に結論を言ってしまいますと、実はこの頼家、元久元年(1204年)7月18日に、享年23という若さで、不可解な死を遂げているのです。
二代目という重要な立ち位置の人なのに、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には「今日、頼家殿が亡くなりました。終わり」(超訳)程度で済まされているという実に不可解な出来事。
-
武士で初『吾妻鏡』は鎌倉幕府のオフィシャル歴史書だが2つの欠点あり
続きを見る
吾妻鏡は一貫して「北条氏サイコー!」というスタンスで書かれているため、同家にとって不都合なことは全て削除されているんではないか?という指摘があったりして。
頼家の暗殺もその一つだといわれています。
つまり北条氏=母親・北条政子の実家と仲が悪かったということになるのですが、それにしたって何で殺されることになってしまったのでしょうか。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
源頼家 18歳で鎌倉幕府を背負う
頼家は源頼朝と北条政子の間の子供としては長男(1182年生まれ)で、生まれた直後から「次代将軍」として見られていました。
特に武芸の腕を賞賛され、16歳の時には朝廷から位をもらって前途洋々といったところ。
頼朝が最も信頼していた一人・平賀義信(信濃源氏)に補佐され、本人も自信を持って「トーチャンの次は俺が幕府をリードしてやるぜ!」と思っていたことでしょう。
しかし、頼家18歳のときに頼朝が亡くなると、彼の予想とは違った方向に事態が進み始めます。
-
史実の源頼朝はいかにして鎌倉幕府を成立させたか?53年の生涯まとめ
続きを見る
18歳といえば、当時の感覚としては若造とはいえ立派な大人です。
頼家は当初から後継者として見られていたので、しかるべき教育も受けていたでしょう。
なのに北条氏は「頼家はまだ若くて心配だから、これからはデキる人たち13人の合議制にするわw」(超訳)と言い出し、頼家が直接訴訟などを捌くことをやめさせてしまいます。
当然頼家は反発。
「そっちがその気ならこっちだってやったるわい! 俺の近習(主君の側でいろいろやる人)を通さないと話聞かないからな!!」(超訳)
そう言って真っ向から北条氏にケンカを売りました。
どっちかというと売ったのが北条氏で買ったのが頼家ですかね。
母の実家北条氏との争いが激化
しかし、北条氏のほうがやはり一枚上手でした。
どうあっても実権を握りたかった彼らは、頼家の側室・若狭の局が比企氏=北条氏のライバルであったことを利用して、権力を一気に奪おうと試みます。
運の悪いことに、頼家がこのタイミングで重病にかかってしまったため、北条氏はほくそ笑み「あれじゃどうせ頼家は助からない。今のうちに比企氏を丸ごとやっちまえ!」と兵を挙げ、あっという間に比企氏を滅ぼしてしまいました。
吾妻鏡によれば「一度は危篤に陥った」とされている頼家がその後あっさり回復しているので、この“重病”もアヤシイ話だったりするのですが……いやぁ、さすが北条氏、怖いですね。
-
史実の北条時政はどんな武士だったのか?鎌倉殿の13人坂東彌十郎
続きを見る
-
史実の北条義時はドラマに負けず劣らず真っ黒?鎌倉殿の13人小栗旬
続きを見る
このとき若狭の局とその間にできた子供も亡くなったといわれており、事態を知った頼家は完全に激怒。
軋轢はますます深まっていきます。
※続きは【次のページへ】をclick!