源義光

源義光/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

信玄や義重を輩出した甲斐源氏の祖・源義光はどんな武士だった?

大治2年(1127年)10月20日は源義光の命日です。

「いったい誰なの?」と思われる方は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の八嶋智人さんを思い出してください。

源頼朝のライバル関係であり、甲斐からやってきた武田信義――その曽祖父が源義光であり、その後の武家社会に絶大な影響を与えた方でもあります。

というのも信義の子孫にいるのが武田信玄であり、また義光の別の子からは佐竹義重などの佐竹氏も輩出されているのです。

いきなり、まくし立てるように説明して申し訳ありません。

他にも『鎌倉殿の13人』で北条時政の婿であった平賀朝雅も子孫ですし、もはや数え上げたらキリがないほどで、ならばなぜ、これほどまで発展できたのか? 当人はどんな武士だったのか?という疑問も湧いてくるかもしれません。

「新羅三郎義光」とも称される源義光の生涯を振り返ってみましょう。

 

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河内源氏三兄弟

源義光の事績を振り返るには、まず本人を含めた三兄弟で見ていくのがよろしいかと思われます。

彼らがその三人で、生没年は諸説あります。

源義家:長暦3年(1039年)?

源義綱:長久3年(1042年)?

源義光:寛徳2年(1045年)?

三兄弟の父は源頼義で、母は平直方の娘。異母兄弟ではなく、同じ母の子と伝わります。

生まれた場所は河内国南部、現在の大阪府羽曳野市でした。

同エリアを拠点とする河内源氏の三兄弟は、それぞれ元服した寺社を取ってこう名乗ります。

八幡太郎義家

賀茂二朗義綱

新羅三郎義光

「新羅三郎義光」とは不思議な呼称だなと思うのも、こうした由来があったんですね。

後に武名を轟かせる三兄弟。

それは名門・河内源氏だからこそ、と思ってしまうかもしれませんが、義光の生誕時点でそこまで強かったわけではありません。

むしろ、源氏の一系統に過ぎず、河内源氏を特別な存在にしたのは義光と兄二人であり、彼らの活躍は鮮烈でした。

では、何がどう鮮烈だったのか?

それには平安末期における“武士”の存在を確認しておくのが良いかと思われます。

 


東北「蝦夷」の討伐へ

頼朝を中心とした源平合戦に入る前、平安時代の武士はいかなる存在だったか?

一言でまとめるなら武力だけの存在です。

当たり前と思われるかもしれませんが、鎌倉時代のように武力を用いて政治力を行使するまでには至らず、朝廷や貴族に仕え、警護や犯罪者の討伐を行うのがもっぱらの役目でした。

当時の地方は山賊や海賊が横行していて、賊を取り締まるのに実力行使が必要だったからです。

しかし時代は変化してゆきます。

藤原道長を頂点とした摂関政治の全盛期は終わりを告げ、程なくして院政へ突入。

院政には、権力を分散させることで、摂関政治を抑制する役目がありました。その影響で、寺社勢力が台頭し、荘園経営も変化し、社会の在り方も変わってゆきます。

源義光の父である源頼義の時代は、ちょうど、院政前夜を迎えていた頃でした。

武士の役割も拡大され、警護から討伐軍の派遣まで。

特に最大の討伐対象となったのが東北地方――朝廷に反抗的な「蝦夷(えみし)」でした。

当時の武士の戦いは弓と馬が必須ですが、古くから馬産地として知られる東北地方は、馬に慣れた有能な兵を備えており、中央貴族から非常に恐れられていました。

彼らと真っ向から渡り合えたのが河内源氏です。

まず義光の父である源頼義と兄の源義家が【前九年の役】で活躍。

現地で独立反抗的な動きをしていた安倍氏の討伐に成功しました。

前九年の役
前九年の役で源氏が台頭! 源頼義と義家の親子が東北で足場を固める

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当時19歳だった義家は、天喜5年(1057年)11月、【黄海(きのみ)の戦い】で奮戦し、その強弓が語り継がれることになり――そうした活躍もあって、康平6年(1063年)には従五位下出羽守に叙任されます。

実際の戦場で義家がいかに恐れられていたか?

『梁塵秘抄』に収録された今様からうかがい知ることができます。

鷲のすむ深山(みやま)には なべての鳥は棲(す)むものか おなじき源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや

【意訳】鷲のいる深い山には、普通の鳥は住まないよ。同じ源氏といっても、八幡太郎は恐ろしい!

「八幡太郎」の名前が鳴り響く様が伝わってきますね。

では、肝心の義光はどうだったのでしょう。

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