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【足利義満】
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正室・日野業子との間に子は恵まれずとも
正室に日野業子を迎えたのは文中3年/応安7年(1374年)のことでした。
二人の間に子供が生まれなかった(あるいは生まれても夭折した)せいか。
義満は側室を多く抱え、あっちこっちで子供を産ませています。
しかし、後に将軍となる足利義持・足利義教の母である藤原慶子が亡くなったときの冷淡ぶりからすると、義満が正妻の業子を愛していたという話は真実のように思われます。
もともと業子は和歌が得意で寵愛されていたとも伝わりますし。
慶子に対して冷たかったせいで、息子である義持との仲があまり良くなかった……という説もあります。これもあるあるですね。
義満の功績の一つに明(当時の中国)との貿易を大々的に行ったことが挙げられますが、少なくとも結婚する前後あたりからその構想を抱いていたようで、明に申し入れたことがありました。
しかし、この頃の明は
・南朝を唯一の通商相手としていたこと
・明の皇帝から見て義満は陪臣に過ぎないこと
から交渉は失敗しております。
まぁ普通は、一つの国に二つの政権があるとは思いませんもんね。
南北朝時代は、外交関係においても、いささか面倒な事態を引き起こしていたんですね。
政務を執りながら多彩な才を発揮する
このあたりから、義満の特徴である「同時期にあらゆる方向の政策を行っている」という点に着目してみると面白くなってきます。
明との交易を考える一方で、勅撰和歌集の編纂を執奏したり。
屋敷をそれまでの三条坊門から北小路室町に移して、幕府の政庁としたり。
”室町”幕府の名はここからきています。
別の場所だったら、今頃、我々もその名で同幕府を呼んでいたのかもしれません。
他には、京都市内の行政権・課税権が複雑化していたのを幕府に一元化させ、守護大名が謀反を企てても対抗できるよう、将軍直属の軍として奉公衆を設けました。
また、奉行衆という官僚組織も作っています。
夢と現実を同時に見ている……というと、ちょっと綺麗すぎますかね?
興福寺の宗徒が神木抱えて強訴に来よった
義満の実務能力が評価されたのでしょう。
朝廷での官位もガンガン上がっていきました。二条良基の支援を受け、公家社会の中にも積極的に入っていきます。
それがプラスに働いたのが、天授4年/永和4年(1378年)に起きた「康暦の強訴(こうりゃくのごうそ)」という事件です。
”南朝方に”奪われた寺社領の変換を求めて、興福寺の宗徒が春日大社の神木を掲げて訴えてきたのです。
強訴というとかつて権勢を誇った白河天皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師」と並び称した延暦寺のものが有名ですが、さらに古い歴史を持つ興福寺も度々やっていました。
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興福寺は、藤原氏の祖先である鎌足と不比等にゆかりの深いお寺であり、さらに春日大社には藤原氏の祖先とされる天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
つまり、興福寺が強訴をすると、藤原氏系の公家は実質的に出仕できなくなってしまうのです。
場合によってはご神木を御所の門前に放置して「神意が目に入らぬか!」みたいな態度を取ることもありました。
一応、ご神木を持ち出すにあたって儀式をするのですが、「そんだけ大事に扱うものなのに、屋外に放置するのはいいんかい!」とツッコミたくなりますね。
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