北条義時

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

史実の北条義時はどんな人物だった?62年の生涯と事績を振り返る

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かくして僅かな供を連れ、ほぼ丸腰で出かけた比企能員は、案の定、時政邸で取り押さえられ、命を落としてしまいます。

命からがら逃げ帰った供の一人がこのことを比企氏の人々に伝え、一族揃って抵抗しようと矢先に義時らに攻め込まれ、滅びてしまいました。

これを【比企能員の変】とか【比企の乱】と呼んでいるのですが、先に動いたのは北条氏であり奇妙な呼び方に感じますね。

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わずかに逃げ延びた比企氏の面々も、追討で殺されるか流刑に遭うか。いずれにせよ表舞台を去ることになりました。

このとき、母が比企氏出身だったとされる島津忠久も連座して、大隅・薩摩・日向の守護職を取り上げられています。

彼は比企氏の政治的活動に深く関わっていたわけではなかったようで、数年で政治に戻ってきていますが。

名字からもわかる通り、島津忠久は戦国大名島津氏の祖先にあたる人物です。もしも彼が比企氏一族と行動を共にしていたら、この乱のときに討たれ、後の島津氏もなかったのかもしれません。

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畠山重忠の乱

こうしてまた一人、政敵を葬った北条氏。

将軍・源頼家はこのころ病床に伏しており、やっと快方に向かいかけていたところでした。

そんなときに妻の実家が滅んだと聞かされたのですから、怒りも悲しみも倍増!

和田義盛仁田忠常に命じて時政を討とうとしますが、義盛はこれを拒否するだけでなく、時政にこの情報をリークしてしまいます。

忠常のほうは即座に武力行使しようとはせず、時政邸を訪問したようです。

しかし帰りが遅くなってしまい、それを「うちの殿も時政の奴に殺されたのでは」と勘違いした一族の者が、先に報復として義時邸へ襲いかかります。

幸い、義時は政子の住まいである大御所へ出かけていたので大事ありませんでしたが、北条氏にとっては仁田氏を討伐する口実になりました。

結局、仁田氏も北条氏に攻められて滅んでいます。

忠常は帰り道でこの事件を知り、腹を決めて大御所に向かったところを誅殺。

北条氏にとって障害になりうる人物が、一人ずつ消されていった感がありますが、どこまでが計画や陰謀によるものなのか……史料上ではわかりません。

偶然起きたことに対し、北条氏が間髪を入れずに動いたという可能性も、なくはないですよね。それはそれで、抜け目がなさすぎて恐ろしい話ですが。

ともあれ、北条氏は後ろ盾を失った頼家を追放して将軍位を奪い(後に暗殺)、弟の源実朝に跡を継がせます。

実朝もこの時点では、まだ12歳の若年。当然、実権を握るのは北条氏です。

時政はその立場を盤石にするべく、次は畠山重忠を討とうとしました。

ところが、重忠に対しては、そう簡単にはいきません。

日頃から清廉潔白な武士だったため、特に追い詰める理由がないのです。

そうなれば困るのは義時のほう。今後を考えれば、周囲の人望も厚い重忠を殺して敵を増やすより、味方にしておいた方が得なのですから。

義時個人としては重忠を討ち取る気はなかったようです。

しかし義時は結局、父・時政の命に抵抗できず、武蔵国二俣川で重忠を討ちます……。

そして重忠を討った後、黒幕が時政の後妻“牧の方”であることが判明しました。義時にとっては継母ですね。

「継母」の時点でイヤな予感がするのは、白雪姫やらの童話のせいでしょうか(白雪姫の原典では実母だったそうですが)。

牧の方と時政の間には何人か子供がいて、その娘の一人が、御家人平賀朝雅という人に嫁いでいます。朝雅は、牧の方にとって信用できる存在だったようです。

そんな朝雅が、あるとき酒席で重忠の息子である畠山重保と口論となりました。

朝雅はそれを恨んで牧の方にチクり、それを真に受けた牧の方がさらに時政にチクり、畠山重忠討伐という流れになった……といわれています。

口論の原因は、源実朝の御台所(正室)に関することだったそうで。正直、私怨にしか見えません。

 

父の時政も失脚へ

一方、背景に牧の方がいた……と知って、大きな衝撃を受けたのが義時です。

大して意味のない理由で、今後の幕府を支えたであろう有能な武士を、むざむざ討ってしまったのですから。

しかも直接手を下したのは自分であり、自責の念もあったことでしょう。

そこで義時は、事件に関係した御家人を誅殺し、時政の動向を注視しました。

すると、牧の方を中心として、源実朝の暗殺計画が立てられていることが発覚します。

義時は実朝暗殺計画をその母・政子に伝え、実朝を自分の屋敷に保護し、さらには御家人を集めて警備を万全とします。

暗殺は無事に防がれ、かくして時政は失脚。

頭を丸めて、地元の伊豆・北条の地で隠居生活となりました。

時政が政治からいなくなると、北条政子と義時が実朝を庇護し、他の御家人が彼らに仕える……というカタチになりました。

しかし、政務を司る政所のトップだった義時は、次第に独裁的になっていきます。

他の御家人たちにとっては当然大きな脅威となり、義時が政治のトップになった直後、

「下野の宇都宮頼綱が謀反を起こし、一族郎党を率いて鎌倉を襲おうとしている」

という噂が出ました。

義時は、政子や大江広元・安達景盛らと(一応)相談した上で、小山朝政に宇都宮氏追討を命じます。

しかし、その朝政が、直ちに従おうとしません。宇都宮頼綱が、かつて小山氏に養子入りしていたことがあり、朝政とは義兄弟の関係にあったからです。

その上で、朝政は「もしも本当に頼綱が鎌倉を攻めてきたら、力の限りお守りします」と約束し、なんとかその場を丸く収めました。

同時に、頼綱にも謀反を疑われていることが知らされたと思われます。

頼綱から義時宛に「私は謀反を起こそうとはしていません」という手紙が出されており、さらにその後、出家しているからです。

それでもまだ念が足りないと感じたのか、頼綱はわざわざ鎌倉までやってきて、義時に直接詫びようとしました。

義時は疑念を消せなかったのか。このとき頼綱に会わなかったそうです。

自分の父親が似たような手段で比企能員を暗殺し、そのまま比企氏を滅ぼしていますから、警戒したのかもしれませんね。

 

義時の権力強化

さらに義時は、自らの独裁性を強めるため、あれこれやろうと動き出します。

まず守護の終身制をやめて定期交代制にし、他氏の力を削ごうとしました。

さすがに、千葉氏や三浦氏など、頼朝以前の時代から関東に根付いていた家によって大反対に遭い、実現していません。

また、別の機会には、将軍・実朝に対して「私の家臣を御家人として扱うようにしてくれませんか」と持ちかけたこともありました。

実朝にとって、義時の家臣は陪臣にあたります。

そんな彼らを【御家人=将軍の直臣】にするとなると、義時の立場が将軍同然になるわけで承諾できません。実朝自身の意志というよりは、母・政子や大江広元の意見が強かったのでしょう。

一連の義時の動きに対し、他の幕府重鎮たちが警戒を強める中、新たなターゲットになったのが和田義盛です。

それまで和田義盛は、北条氏に協力的でした。

しかし、泉親衡(いずみ・ちかひら)という御家人が源頼家の遺児を担ぎ上げて北条氏に対抗しようとし、その計画が実行前にバレてしまいます。

これに義盛の息子と甥も関係していたことが明るみに出たため、義盛も義時に睨まれてしまうのです。

結果、息子は許されました。

ただし、甥の和田胤長は深く関与していたとみなされ、一族が居並ぶ中で縄をかけられるという恥辱を受けさせられます。

さらに胤長の屋敷も別の御家人に下げ渡されてしまいました。

度重なる屈辱に対し、いよいよ和田義盛も我慢ができなくなってきます。

 

和田合戦

挑発――とも取れるような義時の行動に対し、義盛は密かに挙兵を決意。

しかし、そのような噂が流れてしまい、源実朝から糾弾の使者が立てられました。

義盛はもちろん、実朝に逆らう気は毛頭ありません。

「義時殿があまりにも酷いので、詳しい話をしたいだけです」

そんな返事で対応し、さらに義盛は、本家筋にあたり、イトコでもある三浦義村に事の次第と挙兵の意思を伝えました。

血縁があるからには、味方してくれると考えたのでしょう。

しかし、です。

なんと義村は、義盛の挙兵を義時にリークしてしまうのです。

そのため義盛が鎌倉で挙兵したとき、北条義時方には援軍が続々と到着。

予想外の展開に苦しみながらも、義盛軍は果敢に戦いました。一時は義盛軍のほうが優勢だったとまでいわれるほどです。

とはいえ、それにも限界がやってきます。

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