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【北条義時】
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御家人たち13人の合議制
頼朝の死後、嫡男の源頼家が二代目の将軍になりました。
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義時にとっては姉の息子、つまり甥っ子にあたります。
まだ16歳と若い頼家を支えるという名目で、当時の宿老格の御家人たち十三人による合議制が生まれました。
このとき、義時もその一員に加わっています。もちろん父の時政も入っていました。
他のメンバーは以下の通り。
・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政
・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄
・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政
・北条義時
最初の四人は幕府創設の要ともいえる人々です。
・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政
特に大江広元は源氏将軍三代に渡って仕え、官位も御家人筆頭の正五位という重鎮でした。
息子の親広は、義時の娘婿でもあり、たびたび記録上に出てきます。
間の四人もまた、幕府の草創期に活躍した人々です。
・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄
保延四年(1138年)生まれの時政と同世代か、ややずれるくらいの年代の人が多いので、鎌倉幕府ができた頃には結構な年齢になっていました。
そのためか、いつの間にか記録から消えている人がいたり、同じような時期に相次いで亡くなったりしています。
次の四人は、デカすぎる共通点がありまして。
・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政
それは「この合議制ができた後、義時の主導で滅ぼされた」というもの。
『え? 北条時政って義時の父ちゃんだよね?』と思われるかもしれませんが、この時代の武士あるあるというか、まあそれなりの経緯があります。
さすがにブッコロしてはいませんが、政治家としての時政を終わらせたのは、子供である義時と政子でした。
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順を追って説明して参りましょう。
全ては御家人のボヤキから始まった
まずは、梶原景時がその地位を追われました。
景時は義経と大ゲンカした人ということで、現代においてもあまりいいイメージがないかもしれません。
しかし、それは彼が厳格な性格であり、職務に忠実だったことの裏返し。
鎌倉幕府が始まってからの景時は、侍所という役所で御家人の統率や警察の仕事をしていました。
当時は頼朝が存命中でしたから、頼朝自身が「コイツならこの仕事を任せられる」と信頼していたのでしょう。
そういう態度を取られると、御家人たちもおとなしくせざるをえません。現代の学校でいえば学級委員や風紀委員、会社で言えば監査役、お役所ならマルサなどに近いイメージの立場です。
要するに、他の人々からすると煙たい存在なわけで……その反感は、頼朝の死によって高まる一方になりました。
そんな中で、とあるトラブルが起きました。
頼朝が亡くなって、頼家が跡を継ぎ、十三人の合議制ができた後のことです。
結城朝光という御家人が、侍所で
「武士は二君に仕えずという。頼朝様が亡くなった時、自分も出家しておけばよかった」
とボヤいたのだそうです。
これを聞いたのが義時の妹・阿波局です。
彼女は朝光に対し「この前あなたが愚痴ってたこと、景時殿にバレてしまったみたいですよ。このままだと殺されてしまうかもしれません」と告げました。
実際には、この時点で何も決まっていなかったようですが……。日頃から恨まれているだけに、こういうときの悪い想像は飛躍します。
いつしか「景時はほんのちょっとのことでも許さないし、何かあれば御家人をすぐブッコロすに違いない! 皆でアイツを罷免に追い込もう!」という流れになってしまいます。
頼朝ならば、景時が讒言したとしても、鵜呑みにすることはありません。
しかし年若い頼家が景時の言うことを信じて、朝光を罰そうものなら、今後似たような理由で誰が処分されるかわかりません。
それを防ごうと、なんと66人もの御家人によって景時罷免の連判状が作られました。
共通の敵がいると、人間団結しやすいものですよね。
連判状は、まず大江広元に提出。この66人の中には、足立遠元・安達盛長・三浦義澄・和田義盛といった、十三人の合議制に参加している人も含まれています。
幕府の上から下まで、景時を恨んでいる人がまんべんなくいたわけです。
梶原景時の変
これで困ったのは、連判状を出された大江広元です。
実際に何かが起きたわけではないながら、これほど多くの御家人が関わっているものを、握りつぶすこともできません。
結局、広元は、あまりにも御家人たちが言い立てるので、仕方なく頼家にコトの次第を報告し、連判状を提出します。
このとき、頼家は満17歳。まだまだ若いとはいえ、当時の基準では成人として扱われる年齢です。広元も頼家を大人と見ていたからこそ、最終決定を促したのでしょう。
そして頼家は、景時本人に連判状のことを伝え「こんなものが俺のところに出されたんだけど、お前から何か弁明はあるか」と尋ねます。
頼家から見ても景時は頼もしい存在だったでしょうし、言い分があれば聞くつもりだったでしょうね。
頼家の性格についてはあまり芳しい評価が残っていないものの、この件で双方の言い分を聞こうとしているあたり、全くダメダメな人というわけでもなさそうです。
しかし、景時は「これほど多くの名で連判状が作られた=自分は皆に強く恨まれている」ことを悟ったようで……何の弁明もせず、一族をまとめて領地の相模国一宮に移ります。
「見苦しい言い訳はしませんし、事を荒立てたくはないので、謹慎します」という意思表示ですね。
それでも、御家人たちの腹の虫は収まりません。
頼家だけではかばいきれず、景時は間もなく追放の処分が決定してしまいました。
職を失ってしまっては、一族を養っていくこともできません。
気の荒い人であれば、一か八かで頼家を襲うなり、御家人の誰かと刺し違えるなり、荒っぽい方法を選んだでしょう。
しかし、景時はそうしませんでした。京に出てどこかの公家に仕えようとしたのか、西へ向かったのです。
その途上で相模の武士に襲われ、景時含む一族のほぼ全てが討たれてしまったのですが……。
この一連の事件を「梶原景時の変」といいます。
正直、景時は何も悪くないというか、イメージだけでブッコロされるところまでいってしまって、実に気の毒な話。この件に北条義時らは直接関わっていない、とされています。
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しかし、コトの発端が義時の妹である阿波局だというあたりから、
「実はこのときから北条氏の陰謀が始まっていたのでは?」
とする向きもあります。
直後に、景時の口利きで御家人になった城長茂(じょう・ながもち)という人が上洛し、後鳥羽上皇に幕府追討の院宣を求めたものの失敗。
彼もまた幕府軍に討たれているのがまた、なんともキナ臭いところで……。
鎌倉時代の基本史料となる吾妻鏡は、かなり北条氏寄りの書き方をしていますので、そのあたりを差し引いて考えなければいけません。
そこがまた、この時代の難しいところです。
比企氏の乱
時期が少々前後しますが、頼朝の死・頼家が二代将軍になったあたりの時期は、御家人たちの世代交代が相次いだ頃でもありました。
正治元年(1199年)~建仁三年(1203年)の間に、
正治元年 足利義兼
正治二年 三浦義澄・安達盛長・岡崎義実
建仁元年 千葉常胤
建仁二年 新田義重
建仁三年 三浦義連
十三人の合議制に加わった人々も含め、こういった人々が亡くなっています。
北条氏の陰謀や天災、合戦などではなく寿命でした。生年がはっきりしていない人も多いのですが、おおむね60代後半~90歳近くだったようです。
このころ義時は40歳前後。当時の基準では、かなり高齢の域に近づいてきた頃合いでした。
ゆえに『自分の子孫のため政敵を残らず始末しておこう』なんて事を考えていたかもしれません。
次に滅ぼされたのは比企能員(ひきよしかず)。
建仁三年(1203年)【比企氏の乱】によって一族まるごと終焉を迎えます。
比企氏は、頼家の妻・若狭局の実家です。
頼家は、合議制ができる前から、将軍としての実権を奪われつつあったため、母の実家である北条氏より、比企氏に接近していました。
また、若狭局が息子を産んだことで、比企氏が次期将軍の後ろ盾になる可能性が出てきたことも、北条氏に目をつけられた理由の一つだと思われます。
時政と義時は比企氏の力が強大になる前に、手を打つことにした……というわけですね。まぁ、比企氏側の武士が政子の住まいを襲ったりしているので、どっちもどっちなんですが。
手荒なことをしてもしなくても物騒な結末になるというのは、中世のこととはいえ酷い話です。
なんでも、義時の父・時政が
「ちょっと政務上で相談したいこともあるし、以前から考えていた仏像供養を行うついでに、我が家へきてもらえないか」
と、能員にもちかけたのだそうです。
政敵の招待ですから、当然、比企氏の関係者たちは警戒し、
「普段から親密に相談をしているわけでもないのに、怪しすぎます。行かないほうがいいのではありませんか?どうしても行くというのなら、警護の兵を充分に用意していくべきです」
と能員に勧めました。
しかし能員は反対します。
「そんなことをすれば、かえって疑いが深くなる。仏事のこともあるし、本当に政務の相談をしたいのかもしれないから、平服で行ってこちらの誠意を示すべきだろう」
あまりにも潔すぎる態度で嫌な予感しかしませんね。
かくして僅かな供を連れ、ほぼ丸腰で出かけた比企能員は、案の定、時政邸で取り押さえられ、命を落としてしまいます。
命からがら逃げ帰った供の一人がこのことを比企氏の人々に伝え、一族揃って抵抗しようと矢先に義時らに攻め込まれ、滅びてしまいました。
これを【比企能員の変】とか【比企の乱】と呼んでいるのですが、先に動いたのは北条氏であり奇妙な呼び方に感じますね。
比企能員はなぜ丸腰で北条に討たれたのか? 頼朝を支えてきた比企一族の惨劇
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わずかに逃げ延びた比企氏の面々も、追討で殺されるか流刑に遭うか。いずれにせよ表舞台を去ることになりました。
このとき、母が比企氏出身だったとされる島津忠久も連座して、大隅・薩摩・日向の守護職を取り上げられています。
彼は比企氏の政治的活動に深く関わっていたわけではなかったようで、数年で政治に戻ってきていますが。
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名字からもわかる通り、島津忠久は戦国大名島津氏の祖先にあたる人物です。
もしも彼が比企氏一族と行動を共にしていたら、この乱のときに討たれ、後の島津氏もなかったのかもしれません。
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