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【源頼家】
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伊豆で入浴中に暗殺 大事なところを……
ここで政子が取り成しなり何なりしてくれれば良かったのでしょう。
しかし特に記録はなし。
結果、頼家は北条氏との溝を埋めることはなく、無理やり修善寺へ引っ込まされた挙句、暗殺されてしまったのです。
同時代の史書『愚管抄』には
「北条の兵が入浴中に襲ったんだけど、頼家がとんでもない暴れ方をしたもんだから、首に紐をつけ、男の大事なところ(原文では“ふぐり”)を切り落としてやっと殺したんだってさ」(超訳)
と書かれています。
心臓をつくなりすればいいはずなのに、何か恨みでもあったのでしょうか。確かに急所中の急所かもしれんけど、中世って怖い……。
享年23(満21才)。
若すぎる上に恐ろしすぎる最期でした。
記録が残っていないだけで本当は政子も何かしていたのかもしれません。
しかし、吾妻鏡の記述やその後の言動からして、このカーチャンが実家と息子のために奔走した可能性は極めて低そうです。
そもそも、頼家に対する政子の態度は全体的に冷たい。
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後に彼らが強引に後を継がせた三代目・源実朝も暗殺されてしまいますけれど、そのとき政子は「実朝は唯一残った子供だったのに」と悲嘆していたことが記録されています。
”尼将軍”として女丈夫のイメージが強い政子に母親らしい一面があったことを示す一方で、頼家の死亡時にそうした動きは一切見られません。
たまたま記録が残らなかったのでしょうか。お墓は建ててますけども。
また、頼家が幼いころ初めて鹿を射止めたとき、夫の頼朝が大喜びする横で、政子は「武士なんだからそのくらいできて当たり前でしょ」と取り合いませんでした。
その一言をそのまま受け取るか。愛の裏返しと取るか。
今となっては不明ながら、言葉通りに受け止めれば冷淡さとも見えますね(大河ドラマではわざと冷たい態度にしていました)。
不幸な最期の源氏将軍3代
ちなみにいわゆる”源氏将軍”は三人とも不幸な死に方をしています。
頼朝の死因は実は不明。
頼家は上記の通り。
実朝は頼家の息子である公暁(実朝にとっては甥)に殺されています。
北条氏もその後百年単位で実権を握りますが、短命が多い上、鎌倉時代以降生き残ることはできませんでした。
ついでに言えば幕府そのものも源氏一門の足利氏・新田氏に滅ぼされておりますし、後世から見ると一体誰が得をしたのか全くわかりません。
中世のことですから、そこまでロングスパンで物事を見ている人がいなかったのかもしれませんが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「源頼家」
慈円/大隅和雄『愚管抄 全現代語訳 (講談社学術文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon)
源頼家/wikipedia