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【建武の新政】
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息子の護良親王すらも制御できなかった……
他に、下級役人が就くものだった守護や国司に、もっと上の身分の人を就けて、地方にも天皇の力が行き届くように図っています。その結果はゲフンゴホン……。
後の時代にもまま起きることですが、
「中央のやり方や最新技術をいきなり地方に持ち込み、しかも地方のやり方や慣例を無視したので反感を買いまくる」
というパターンですね。
また、護良親王は足利尊氏と対立し、暗殺狙いで乱暴を働くなどして、征夷大将軍をクビになりました。
その後は中先代の乱いおける混乱の中で殺害されてしまっています。
護良親王は後醍醐天皇の皇子です。
これだと「息子の制御すらままならなかった」ということになりますね(´・ω・`)
それでも、後醍醐天皇を支えようとした人もいました。【三房】と言いまして……。
後醍醐天皇を補佐した三人の公家たち
特に、建武の新政を補佐した三人の公家を【三房】といいます。全員の名前に「房」の字がついていたからです。
彼らのことも、ほんの少しご紹介しましょう。
・北畠親房(村上源氏)
『神皇正統記』の著者としても知られている人です。
建武の新政に対しては批判的でしたが、後醍醐天皇の信頼は厚く、天皇崩御後の南朝を主導していくことになります。
余談ですが、後に織田信長の次男・信雄が婿養子入り(という名の乗っ取りを)する戦国大名・北畠家のご先祖様でもあります。
・万里小路宣房(藤原北家勧修寺流)
雑訴決断所を任されましたが、後醍醐天皇が吉野に行った後は従っておらず、その後の万里小路家は北朝方についています。
他には、「万一記(万里小路一品記・宣房卿記)」という日記を書き、家の地位を高めています。
・吉田定房(藤原北家高藤流)
後醍醐天皇が幼い頃に乳父となり、その後も鎌倉幕府への使者を務めるなど、側近中の側近ともいえる人です。
後醍醐天皇に対しては、やはり親心めいたものを持っていたのでしょう。
正中の変の際は幕府への申し開き、元弘の乱では六波羅探題への密告をしました。後醍醐天皇の身を案じるからこそ、穏便な方針を取りたかったと思われます。
建武の新政では恩賞方や雑訴決断所を任されましたが、その後の動きには不明確な点があります。
「徒然草」の著者・吉田兼好とは同姓ですが、血縁関係はおそらくありません。
……お気づきでしょうか。
三人のうち一人は途中離脱、一人はよくわからん行動をし、後醍醐天皇の崩御後まで南朝にいたのは一人だけだということに……。
中枢扱いの人間ですらそれなのですから、下や地方は言わずもがな。
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