建武の新政

後醍醐天皇図/Wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

建武の新政はあまりにお粗末「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて

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【中央政治】

◆記録所

建武政権における最高機関。実は後醍醐天皇が親政を始めた元亨元年(1321年)からあった。寺社などの荘園の調査と訴訟を扱う。

楠木正成などが所属。

楠木正成
戦術の天才・楠木正成には実際どんな功績があるのか?なぜ最終的に尊氏に敗れた?

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◆武者所

後醍醐天皇の親衛隊+内裏&京都市中の警備隊。

新田義貞など新田氏が多く所属。

新田義貞
新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで

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◆恩賞方

討幕に参加した者への恩賞を決めるため、先例や意見を参考に話し合う部署。

◆雑訴決断所

所領や年貢に関する訴訟の大半を担当。記録所から多くの訴訟が移管された。

公家と武家が入り混じったカオスな役所。

綸旨の内容にミスが多かった・訴訟が多すぎた・職員同士の連携がうまく行かなかったなどなどの理由で仕事が滞りまくり、二条河原の落書で「役に立たねえ」(超訳)と名指しされる。

この他に実態のよくわからない機関として「窪所(くぼどころ)」という役所がありました。

次に地方の統治体制を見てみましょう。

 


【地方統治】

◆陸奥将軍府

現在の宮城県多賀城市にあった役所。東北における北条氏の残党狩りも行った。

長官:義良親王(後醍醐天皇の息子)

補佐:北畠顕家

◆鎌倉将軍府

関東の裁判を主に取り扱い、ときには朝廷とも連携した。また、足利一門による軍事機構「関東廂番」も抱えていた。

長官:成良親王(後醍醐天皇の息子)

補佐:足利直義(尊氏の弟)

そして建武の新政における最大の特徴がこれ。

「全ての部署が天皇直属とされた」

今まで中央政治を執り行ってきた「太政官」とその下にある八省の仕事を実質的に否定することになりました。

八省の仕事と、建武の新政で設けられた諸々の部署には被るところが多々あったためです。

『梅松論』という本では、後醍醐天皇がこれらを指して

「朕の新儀は未来の先例」

というパワーワードを残したことになっており、つまりは

「今までの政治制度を一度全部なかったコトにして、これから新しい仕組みで新しい社会を作る!」

という気概を見せていたのです。

しかし、これは公家社会と極めて相性が悪い考え方です。

そもそもお役所というのは「政務を専門家によってできるだけ早く処理する」ために作られ、業務が円滑に進むよう、先例やノウハウを世襲で伝えてきたのが公家社会です。

現代社会にも通じるところがありますが、地域や国ごとの慣例・信仰を完全に無視した法律や制度はほぼ作れません。

乖離が激しいほど強い反発を招いて遵守されなくなり、定めた意味がなくなって社会的な混乱を招くからです。

後醍醐天皇はそういった社会の流れをぶった切るに等しいことをやってしまった……ということになります。

手段と目的が入れ違うどころの話ではなく「車輪の再発明」にも似た無駄ですね。

 


実力主義が導入されたものの……

後醍醐天皇のフォローをしておきますと、建武の新政は「実力主義による登用を行った」という面もありました。

公家社会では家ごとに「どこまで出世できるか」という決まりがあり、その最大限出世できる官職のことを【極官(きょっかん)】といいます。

これは序列を安定させるためのものでしたが、

・能力があっても家柄が良くないと出世できない人が出てくる

・能力がないのに家柄がいいというだけで高官に上る人もいる

という弊害もありました。

また、後醍醐天皇は元々異母兄である後二条天皇の子・邦良親王が即位できるようになるまでの「中継ぎ」という面が強く、宮中の味方も多くありませんでした。

これらを解決するために考えたのが「身分を問わない登用」というわけです。

他に、下級役人が就くものだった守護や国司に、もっと上の身分の人を就けて、地方にも天皇の力が行き届くように図っています。これも前例を無視したやり方ですね。

この一例が後に大活躍する北畠顕家です。

彼は従三位という高位だったにもかかわらず、もっと格下の陸奥守の官職を与えられ、しかも現地に赴くことを強制されています。

公家社会では陸奥守のように国司の座を与えられても、自分は現地にいかず次席の人間に任せる「遙任(ようにん)」が認められていたので、顕家も当初はそうしていました。

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しかし忠臣だった彼は、きちんと奥州へ行き、結果として大きな功績を挙げています。

ちなみにその後、後醍醐天皇がどこでもドアでもあるかのように顕家を呼びつけたり奥州へ戻したりしたため、せっかくうまく行っていた奥州の統治は頓挫しました。あーあ。

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