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【建武の新政】
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実情を見ず理想だけ追い続けた
後醍醐天皇のゴリ押しポイントはまだあります。
「大内裏の再建」と「貨幣鋳造」という、莫大なコストと人手がかかることをやろうとします。
大内裏は平安京のイメージでお馴染みですが、この時代には火災で失われていました。後醍醐天皇はそこも延喜・天暦の治にしたいと考えて再建を計画したようです。
また、貨幣の鋳造については
「自国内で貨幣を作って流通させ、外国製の貨幣を排除したい」
という理由だったようです。
しかし、当時の情勢は
など不利な条件が積み重なっており、後醍醐天皇が掲げた政策を即座に実行できる状況ではなかったのです。
だからこそ大内裏という重要な機関がずっと再建されなかったわけで……眼の前に答えがあったのに、後醍醐天皇には見えておらず、見ようとすらしていなかったといっても過言ではないでしょう。
一応、治安向上には関心を示しており、建武元年(1334年)前半には諸国で乱暴狼藉を取り締まりと中央への報告を定める法律を出しています。
しかしこれも「中央への報告に基づいて、雑訴決断所が対処と罰を決める」というものだったので、当時の通信事情を全く考慮していないやり方でした。
また、倒幕から半年以上経ってもその類が収まっていなかったことも示しています。
狼藉を働く側としても、自分たちの生活のためにそのような行為に及んだ者が少なからずいたでしょう。
こうなったら「報告は後でいいので、騒動を鎮めた者に褒賞をやる」とでもしておけば現地の被害は減ったはずですし、新たに賊になる者も出にくくなったのではないでしょうか。
雑訴決断所のほうでも、後醍醐天皇の綸旨に不備が多いことから、「綸旨を受け取ったら雑訴決断所に報告してほしい」というお触れを出しています。
これでは綸旨の権威が落ちるだけでなく、時間がかかるだけです。
近年でもままある話で、お役所にはとにかく何百年経っても進化しちゃいけない理由でもありそうです。
息子の護良親王より尊氏を信じた結果
また、同時期に後醍醐天皇は自分の息子である護良親王と対立し始めています。
後醍醐天皇が隠岐へ流されている間、近畿から令旨を方々に出して倒幕を促進させたのは護良親王です。
当然その功績は評価されて然るべきところであり、宮将軍として振る舞うのも当然の成り行きといえます。
しかし後醍醐天皇はそれが気に入らなかった。
征夷大将軍の座は与えたものの、護良親王の令旨を否定するなどの措置をするのです。
冷静に考えれば護良親王が譲位を迫ったわけでもないので、自分の息子を警戒するより、武家の懐柔に注力するべきだったのでしょう。
本当に護良親王の野心が強かったのなら、後醍醐天皇が京都を留守にしている間に譲位を受けたことにして帝を名乗っててもよいはず。
護良親王は母と早いうちに死に分かれ、母方の支援が受けられない(受けにくい)という立場ではありましたが、やってやれなくはなかったはずです。
にもかかわらず後醍醐天皇は
「アイツ、もしかして鎌倉で新しい幕府を作ってワシに逆らうつもりか???」
と疑い、さらに護良親王と対立していた足利尊氏がそれを裏付けるかのような讒言をしたため、完全にそっちを信じてしまいました。
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そして後醍醐天皇は、尊氏の弟であり、鎌倉を支配していた足利直義に護良親王を預けてしまいます。
結果、北条氏の生き残りである北条時行とその支援者である諏訪氏らが起こした【中先代の乱】中の混乱により、護良親王は直義の手の者に殺害されてしまいました。
このときの後醍醐天皇ときたら
「ワシの息子を殺すとは許せん!」
と言い出しているのですから、「お前は何を言っているんだ」とツッコミたくなってきます。
「まさか皇族を手に掛けるまではしないだろう」と思っていたとしたら、希望的観測が過ぎて……。
上方の人々は古くから東国人のことを「東夷」=「野蛮人」と罵り蔑んできたというのに盲信しているというか。
単に流罪にするなら、佐渡や土佐など貴人の配流先として定番化しつつあった場所にするか、京都にいた楠木正成などに預ければよかったでしょう。
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