源仲章

源仲章が仕えた後鳥羽上皇(右)と源実朝/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源仲章は義時の代わりに殺された?実朝暗殺に巻き込まれた上級貴族

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『愚管抄』との違いは?

吾妻鏡』での実朝暗殺に関する疑問とは、以下の通りです。

◆実朝の死亡フラグを立てすぎではないか?

不吉な予兆がくどい。

「形見にせよ」として髪を残すとは、あまりにタイミングが出来過ぎ。

実朝が形見にすると与えた髪は、首が発見できなかったため、代わりに遺骸として扱われました。

そうした結果からの逆算と考えたほうが自然です。

◆御剣役という重要な立場の者が、その場で簡単に交替できるのか?

義時の交替は作りすぎの感があります。

見かけた白い犬は、十二神将像の戌神像の化身で、義時に危険を知らせたという設定もあるほど。

なんでもこの戌神は、義時の夢に出てきて危険を告げたこともあるとか。

運慶の彫った十二神将像があまりに素晴らしいため、守護神になったという伝承もあります。

ここまでくると、さすがに設定をてんこ盛りにしすぎではないか?とツッコミたくなるでしょう。

それでも敢えて考えてみますと、鶴岡八幡宮近辺にいても違和感がない十二支の動物が単に犬だったのではないでしょうか。

日本では伝統的に白い犬を幸運の証とみなしています。

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例えば義時の干支は未年(ひつじどし)ですが、さすがに八幡宮の近くで羊がうろつく設定では描写が不自然ですからね。

実はこの交替は、慈円の記した『愚管抄』の記述と異なります。

実朝暗殺事件には京都の公卿も参列していました。

彼らが京都で証言した内容を基にした記述が『愚管抄』には収められていて、そこでの義時はどう記されているか?

「中門に留まれ」

実朝にそう命じられ、事件現場の近くにいなかったことになっています。

こちらの方がはるかに自然ですよね。

 

公暁の狙いが最初から仲章だった可能性

いずれにせよ『吾妻鏡』に書かれた交替話のため、後世、義時は「わざと仮病を使って暗殺現場から離れたのではないか?」と疑われます。

同じく黒幕説がささやかれた三浦義村は、そもそもがこの行事の人選から漏れています。

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ご存知の方も多いですが『吾妻鏡』は北条義時周辺を持ち上げる傾向が強い。

その不自然な持ち上げ方のせいで、かえって義時とその盟友・義村には黒幕説がつきまとってしまいます。

『鎌倉殿の13人』の脚本家・三谷氏は『吾妻鏡』を原作のつもりで書いていると発言しておりました。

ならばドラマでも白い犬が出るのか?

ファンの皆さまは気になるところでしょうが、時代考証の坂井孝一先生が『吾妻鏡』と『愚管抄』の違いを指摘しています。

となれば三谷氏も全く無視するとも思えません。

『鎌倉殿の13人』の慈円役は、山寺宏一さんです。

持ち前の美声と共に、鎌倉で流布している白い犬の噂を否定すれば、興味深いことになりそうです。

そしてこの『愚管抄』の記述からは、別の意味も浮かんできます。

しかし、交替そのものがなかったとすれば、狙いは最初から仲章であってもおかしくはない。

義時と誤認して殺されたという見方は『愚管抄』にもありますが、これはあくまで記した慈円の見解であり、確たる証言を取ったわけではありません。

一体とみなされた君臣であり、かつ仲章が京都の以降を伝えていると見なされたら、狙われてもおかしくはありません。

 

死後に証明された実朝と仲章の力

『鎌倉殿の13人』オープニング映像の終盤に象徴的なシーンがあります。

鶴岡八幡宮の近くでうずくまる犬。

この犬が見つめる中、甲冑をつけた武士が鳥居を前に立っています。

武士は、立ち塞がる後鳥羽院らしき人物の前で刀に手をかけ、そこでオープニングが終わる。

一連の描写は、歴史と物語を反映しているのでしょう。

戌神に守られた北条義時は【承久の乱】で後鳥羽院と対峙することとなります。

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後鳥羽院はなぜ承久の乱を起こしたのか?

その大きな契機となったのが、実朝仲章主従の暗殺の可能性は否めません。

暗殺の報を聞き、後鳥羽院はかなりの衝撃を受けていました。そしてこれ以降、鎌倉への態度が硬化するのです。

忠誠を誓っていた実朝。

その動向を知らせてくる仲章。

二人を鎌倉に置いておく限り、彼らは後鳥羽院に忠実でした。

しかし、もはや己が遠隔操作する将軍が鎌倉にいない――かくして東西は決裂したのです。

実朝と仲章という師弟。

二人はほぼ同時に死ぬことにより、歴史に大きな存在感を証明したのでした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
坂井孝一『源実朝』(→amazon
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』(→amazon
坂井孝一『源氏将軍断絶』(→amazon
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon

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