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【高師直】
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直冬との対立中に直義が南朝へ
足利直冬は、非常にややこしいポジションの人物です。
足利尊氏の実子でありながら、足利直義の養子に入っていました。
その直冬は「義父の仇!」とばかりに、中国・九州で兵を集め、実父に対し反乱を起こしてしまうのです。
なぜ直冬は、実父である尊氏を困らせるような行動に出たのか?
一説には、母親の身分が低く、尊氏とその正室・赤橋登子になかなか認知してもらえず悶々としていたところ、直義がすくい上げたからだといいます。
直冬の挙兵に対し、尊氏は高師泰を差し向けましたが事態は膠着。
尊氏自ら師直らと共に直冬討伐に動こうとしたところで、今度は直義が京都を脱出して南朝方につくという驚きの行動に出ます。
直義は【中先代の乱】の混乱中に後醍醐天皇の皇子・護良親王を暗殺していますので、南朝の人々からすると
「どのツラ下げてこっちに来るんじゃい!!」
と拒否してもいいところなのですが……前述の通り師直が南朝方の武士を多く討っていたため、「師直は共通の敵」とみなしたようです。
護良親王は化けて出てもいいですね。
この動きを知った各地の直義派も挙兵し、騒ぎは拡大するばかり。
こうして、室町幕府の内部で大規模な内乱【観応の擾乱】が始まってしまいました。
首をとられ胴体は川へ
高師直は尊氏と共に出兵し、翌二年二月に摂津・打出浜で敗北。
尊氏は師直・師泰兄弟の出家を条件に、直義派と和睦することを選びます。
尊氏にとっては南朝問題も片付いていないこの段階で、内輪揉めを長引かせたくなかったのでしょう。
しかし、高兄弟は寺へ行くまでの護送中に、摂津・武庫川の地で直義派の武士・上杉能憲(よしのり)の襲撃を受け、ブッコロされてしまいました。
首を取って胴体は川に投げ捨てる、という凄まじいやり方だったそうです。
凄まじい恨みようですが、これは致し方ありません。
実行犯の上杉能憲は、師直が暗殺したとされる上杉重能の息子だったのです。
「親の敵はかく討つぞ」以上の言葉や気持ちを吐いたことでしょう。
師直に同行していた高氏一族もこのときほとんど殺され、別行動していて生き残った息子・師詮も、二年後に南朝との戦で命を落とし、師直の血は絶えました。
ただし前述のように、直義も師直が殺されてから一年後に急死しており、直冬に至っては途中で歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
最後に残ったのは尊氏だけなので、意地の悪い見方をすると
「力を持ちすぎた側近たちをうまく潰しあわせて、より言うことを聞かせやすい他の武士や息子たちにすげかえた」
なんて解釈もできてしまうわけですが、はてさて。
尊氏個人の思想や言動にも不可解なところが多すぎるので、これは単なる妄想としておきましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon)
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
国史大辞典
世界大百科事典
ほか