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【平維盛】
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富士川の戦いで大敗
この源義光と源義家は兄弟。
つまり信義と頼朝は曽祖父が兄弟という血縁関係はあるのですが、始めから共闘していたわけではなく、頼朝の挙兵と鎌倉入りに呼応して共に平家軍を待ち構えていました。
一方、平維盛の軍は、思うように士気が上がりません。
前哨戦にあたる【鉢田の戦い】で惨敗すると、甲斐源氏の武田信義から居丈高な書状が届き、怒った伊東忠清は使者を斬り捨ててしまいます。
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そして治承4年(1180年)10月18日――富士川を挟み、源平が向き合いました。
『平家物語』に記された7万の大軍勢とは明らかに大袈裟です。とても現実的な数字ではなく、戦場では、劣勢から脱落する者も出ていて、せいぜいが1~2千とされます。
それえも戦おうとする維盛に対し、伊東忠清は撤退を主張する有様で、肝心の兵士たちも一向に戦う気概がありません。
そうした最悪の雰囲気の中で、突然、バサバサバサッ!と大音量が鳴り響きます。
水鳥の羽ばたく音でした。
「敵襲だー!」
誤解した平家の軍勢が慌てふためき総崩れになると、維盛もわずか数騎で京都へ逃げ帰る――出陣時の綺羅びやかな姿は、もうそこには残されていません。
平家滅亡を予感させる大敗でした……が、この【富士川の戦い】、知名度の割に実態はよくわかっていません。
勝利をおさめた源氏側は『吾妻鏡』が頼朝の活躍を誇張しすぎており、ありえない場所にいたかのような記述も見られます。
敗北した平家にせよ、悲観的な論調で軟弱さが誇張され、果たして「水鳥の音」だけで撤退したのか、問題はそこではない可能性があります。
・そもそも戦うだけの軍勢が揃っていなかった
・士気や軍勢が明らかに不十分だった
そんな複合的な要素がからまっていて、水鳥に驚いた軟弱ぶりだけが敗因とも断定できないのです。
倶利伽羅峠でも大敗し
11月――数騎とともに京都に辿り着いた平維盛の姿は、平家失墜を知らしめるには十分でした。
激怒した清盛は、維盛の入京すら拒む。
そしてその翌年の治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は高熱にうかされながら世を去りました。
これを機に平家は総崩れ……とはならず、その直後に起きた墨俣川の戦い(3月10日)で平維盛は、頼朝の弟・義円を討ち取り勝利します。
そんな中、新たな強敵が北陸に現れておりました。
木曽義仲です。
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この義仲を迎え撃つにあたり、飢饉のためろくに兵糧もなく、強引な取り立てをしながら、北陸へ向かう平家。
義仲との間に【倶利伽羅峠の戦い】が勃発します。
数では勝る平家でしたが、縦横無尽に急襲や夜襲をしかけられ、結局は敗北し、足並み乱れた軍勢は命からがら逃げ落ちることがやっとでした。
こうなっては後白河法皇にとって木曽義仲こそ救いの神です。
一方、惨敗を喫した平維盛は、一門内でも立場が悪化してゆきます。というより、騎虎の勢いの木曽義仲に追い詰められ、平家一門自体が都落ちする他ありません。
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