平維盛

平維盛/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

富士川の戦いで惨敗した平維盛はその後どうなった? 平家敗北の戦犯なのか

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富士川の戦いで大敗

武田信義は曽祖父に源義光がいる。

源頼朝は曽祖父に源義家がいる。

この源義光と源義家は兄弟。

つまり信義と頼朝は曽祖父が兄弟という血縁関係はあるのですが、始めから共闘していたわけではなく、頼朝の挙兵と鎌倉入りに呼応して共に平家軍を待ち構えていました。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き

一方、平維盛の軍は、思うように士気が上がりません。

前哨戦にあたる【鉢田の戦い】で惨敗すると、甲斐源氏の武田信義から居丈高な書状が届き、怒った伊東忠清は使者を斬り捨ててしまいます。

そして治承4年(1180年)10月18日――富士川を挟み、源平が向き合いました。

『平家物語』に記された7万の大軍勢とは明らかに大袈裟です。とても現実的な数字ではなく、戦場では、劣勢から脱落する者も出ていて、せいぜいが1~2千とされます。

それでも戦おうとする維盛に対し、伊東忠清は撤退を主張する有様で、肝心の兵士たちも一向に戦う気概がありません。

そうした最悪の雰囲気の中で、突然、バサバサバサッ!と大音量が鳴り響きます。

水鳥の羽ばたく音でした。

「敵襲だー!」

誤解した平家の軍勢が慌てふためき総崩れになると、維盛もわずか数騎で京都へ逃げ帰る――出陣時の綺羅びやかな姿は、もうそこには残されていません。

富士川と富士山

平家滅亡を予感させる大敗でした……が、この【富士川の戦い】、知名度の割に実態はよくわかっていません。

勝利をおさめた源氏側は『吾妻鏡』が頼朝の活躍を誇張しすぎており、ありえない場所にいたかのような記述も見られます。

敗北した平家にせよ、悲観的な論調で軟弱さが誇張され、果たして「水鳥の音」だけで撤退したのか、問題はそこではない可能性があります。

・そもそも戦うだけの軍勢が揃っていなかった

・士気や軍勢が明らかに不十分だった

そんな複合的な要素がからまっていて、水鳥に驚いた軟弱ぶりだけが敗因とも断定できないのです。

 


倶利伽羅峠でも大敗し

11月――数騎とともに京都に辿り着いた平維盛の姿は、平家失墜を知らしめるには十分でした。

激怒した清盛は、維盛の入京すら拒みます。

そしてその翌年の治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は高熱にうかされながら世を去りました。

高熱にうなされる平清盛(月岡芳年『平清盛炎焼病之図』)/wikipediaより引用

これを機に平家は総崩れ……とはならず、その直後に起きた墨俣川の戦い(3月10日)で平維盛は、頼朝の弟・義円を討ち取り勝利します。

そんな中、新たな強敵が北陸に現れておりました。

木曽義仲です。

この義仲を迎え撃つにあたり、飢饉のためろくに兵糧もなく、強引な取り立てをしながら、北陸へ向かう平家。

義仲との間に【倶利伽羅峠の戦い】が勃発します。

木曽義仲/wikipediaより引用

数では勝る平家でしたが、縦横無尽に急襲や夜襲をしかけられ、結局は敗北し、足並み乱れた軍勢は命からがら逃げ落ちることがやっとでした。

こうなっては後白河法皇にとって木曽義仲こそ救いの神です。

一方、惨敗を喫した平維盛は、一門内でも立場が悪化してゆきます。というより、騎虎の勢いの木曽義仲に追い詰められ、平家一門自体が都落ちする他ありません。

 


最期は謎の消え方

翌寿永3年(1184年)2月、平維盛の姿が、屋島の陣中から突如消えました。

彼は死んだという曖昧な噂が流れます。

あまりに突拍子もない話ですが、実際に姿を消していて、様々な憶測が飛び交います。

・念願通り出家を果たしたのち、那智において入水した

・隠れ住み、どこかで娘と恋に落ちるものの、もはやこれまでと世を儚み入水した

・入水ではなく、東下の最中に病没した

・いやいや、実は死んでいない

全国各地にある平家の落人伝説。

突如として消えてしまった維盛には墓すらなく、供養碑が残りました。

ワケがわからないかもしれまんが、ともかく「謎」というのが平維盛の最期なのです。

「光源氏の再来」といわれた貴公子は、皮肉にもその消え方までもが似ています。

なぜなら光源氏も、その死を描かれることはなく、ふっと消えるように、宇治十帖へ物語は移ります。そしてその中で、光源氏のその後が語られていくのです。

維盛のみならず、平氏の人物は入水することが多い。

敵に捕らえられ、斬首される酷い死を避けたいという思いからとされますが、いざ入水しても、人体はそう簡単には沈みません。

特に女性の装束は浮き上がり、救出される人も多いです。

切腹の手順が成立するのはこれよりずっと先のこと。

平安末期を生きた平家の貴公子・維盛は、儚く水の中に消えてしまったような最期を迎えたのでした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon

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