こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【平維盛】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
最期は謎の消え方
翌寿永3年(1184年)2月、平維盛の姿が、屋島の陣中から突如消えました。
彼は死んだという曖昧な噂が流れます。
あまりに突拍子もない話ですが、実際に姿を消していて、様々な憶測が飛び交います。
・念願通り出家を果たしたのち、那智において入水した
・隠れ住み、どこかで娘と恋に落ちるものの、もはやこれまでと世を儚み入水した
・入水ではなく、東下の最中に病没した
・いやいや、実は死んでいない
全国各地にある平家の落人伝説。
突如として消えてしまった維盛には墓すらなく、供養碑が残りました。
ワケがわからないかもしれまんが、ともかく「謎」というのが平維盛の最期なのです。
「光源氏の再来」といわれた貴公子は、皮肉にもその消え方までもが似ています。
なぜなら光源氏も、その死を描かれることはなく、ふっと消えるように、宇治十帖へ物語は移ります。そしてその中で、光源氏のその後が語られていくのです。
維盛のみならず、平氏の人物は入水することが多い。
敵に捕らえられ、斬首される酷い死を避けたいという思いからとされますが、いざ入水しても、人体はそう簡単には沈みません。
特に女性の装束は浮き上がり、救出される人も多いです。
切腹の手順が成立するのはこれよりずっと先のこと。
平安末期を生きた平家の貴公子・維盛は、儚く水の中に消えてしまったような最期を迎えたのでした。
あわせて読みたい関連記事
富士川の戦いで水鳥は飛び立っていない?現実は武田信義軍vs平維盛軍だった?
続きを見る
武田信義~頼朝に息子を殺されても甲斐武田氏を守り抜いた生涯に注目
続きを見る
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?
続きを見る
なぜ平清盛は平家の栄華を極めながらすぐに衰退させてしまったのか
続きを見る
モヤッとする位階と官位の仕組み 正一位とか従四位ってどんな意味?
続きを見る
大庭景親は相模一の大物武士だった~それがなぜ一度は撃破した頼朝に敗北したのか
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
他