平維盛

平維盛/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

平維盛が平家敗北の戦犯なのか~富士川の戦いで惨敗した後はどうなった?

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最期は謎の消え方

翌寿永3年(1184年)2月、平維盛の姿が、屋島の陣中から突如消えました。

彼は死んだという曖昧な噂が流れます。

あまりに突拍子もない話ですが、実際に姿を消していて、様々な憶測が飛び交います。

・念願通り出家を果たしたのち、那智において入水した

・隠れ住み、どこかで娘と恋に落ちるものの、もはやこれまでと世を儚み入水した

・入水ではなく、東下の最中に病没した

・いやいや、実は死んでいない

全国各地にある平家の落人伝説。

突如として消えてしまった維盛には墓すらなく、供養碑が残りました。

ワケがわからないかもしれまんが、ともかく「謎」というのが平維盛の最期なのです。

「光源氏の再来」といわれた貴公子は、皮肉にもその消え方までもが似ています。

なぜなら光源氏も、その死を描かれることはなく、ふっと消えるように、宇治十帖へ物語は移ります。そしてその中で、光源氏のその後が語られていくのです。

維盛のみならず、平氏の人物は入水することが多い。

敵に捕らえられ、斬首される酷い死を避けたいという思いからとされますが、いざ入水しても、人体はそう簡単には沈みません。

特に女性の装束は浮き上がり、救出される人も多いです。

切腹の手順が成立するのはこれよりずっと先のこと。

平安末期を生きた平家の貴公子・維盛は、儚く水の中に消えてしまったような最期を迎えたのでした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon

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