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【鎌倉時代の御家人】
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複数の主人を持つこともできた
ちょっと面白いのが、「当時の武士は複数の主人を持つこともできた」という点です。
御家人として鎌倉幕府に仕えると同時に、公家に仕える者もいたとか。
さらに、領地や財産を持つ有力な御家人は、それらをあまり持たない御家人を傘下に入れることもあったそうです。
ややこしい話ですけれども、現代でいえばWワークみたいなものですかね。
また、興味深いのが「鎌倉時代の武士がすべて、御家人だったわけではない」という点です。
そもそも荘園領主と良い関係(きっちりとした報酬制度)が築けていれば、幕府の傘下に入る理由がありません。
建治元年(1275年)の記録では、全国で約480人の御家人がいたようですが、そのうち武蔵国が約80名、相模国・信濃国がそれぞれ30名で最も多い部類とされています。
つまりは他の数十国に残りの約340人の御家人がいたことになりますから、一国あたり御家人が10人いれば多いほうという計算。
場合によっては、一国にほんの数人というケースも珍しくなかったでしょう。
源頼朝が全国を支配したわけじゃない、つまりは鎌倉を中心とした東国限定という見方があるのはこのためです。
御家人でない武士については、特別な呼び名はないようです。
さすがに元寇の際にはそういった武士も徴用されました。
以降、御家人以外の武士も幕府の命令を受けることになりましたが、御家人とのあからさまな扱いの違いに反感を持つ者も多かったようです。まぁ、そりゃそうだ。
そのまま悪党(在野で盗賊も働くような武士)になった者も少なくなかったといいます。
そしてこうした勢力もまた、鎌倉幕府打倒!の一翼となっていくわけです。
将軍に御目見得できるかできないか
鎌倉幕府が倒れた後も、御家人という単語は残りました。
後醍醐天皇が建武の新政の際、この名称を廃止させたことがありますが、一年くらいで復帰しています。
後醍醐天皇の何がどう悪かった?そしてドタバタの南北朝動乱始まる
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個人的には、これって、ただ単に後醍醐天皇が「“御家人”だと幕府っぽくてヤダ」って思ってただけなんじゃ? という気がしてしまいます。
いや、イメージ戦略は大事ですけども、建武の新政のアレコレからするとどうも……。
室町時代~戦国時代においても、誰かに仕えている武士のことを「御家人」と呼ぶ慣習は続いています。
さらに、江戸時代には再び「御家人」が幕臣の一カテゴリとして定められました。
幕臣というのは、江戸幕府に直接仕えた武士のこと。
具体的には
・旗本
・御家人
の2つに分類されます。
江戸時代の御家人は「1万石以下の所領を持ち、徳川将軍家に直接仕え、お目見え以下(=将軍に直接謁見できない)」の武士を指します。
お目見えができる武士は「旗本」といいました。
旗本の力は案外強く、大名家とのパイプ役になって、若年寄や各種奉行、老中との折衝役を務めていることも多々あります。
江戸時代はそれぞれの大名家が穏便にトラブルを解決するため、あっちこっちで旗本や御家人などを通じた連絡がよく行われていました。
ちなみに、大老とか老中とか、主に幕末になると、そういった言葉が目立つようになりますよね。
これは幕府内の役職の話であって、旗本や御家人とは全く考え方の違う話です。
詳細は以下の記事をご覧ください。
大老・老中・若年寄の違いをご存知ですか? 細分化された江戸幕府の役職
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★
とまぁ、鎌倉時代・室町&戦国時代・江戸時代では、「御家人」という言葉の意味が全く違ってきます。
武士の呼び名というところは共通ですが。
もしも受験生の方がおられましたら、そこまで問われることはないでしょうからご心配なく。
ただし、歴史関連のドラマや書籍をたしなむ際に、これを知っておくと理解度が俄然変わってきて面白くなります。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
御家人/Wikipedia