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【イケメン武士が重用される理由】
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トークスキルに悩む坂東武者たち
現代人は面接において、見た目のみならず、話し方も審判されますね。
同じことは鎌倉の御家人にもあてはまりました。
声がシッカリしているか。
話し方が明確明瞭であるか。
外見だけでなく、こうした評価も中世にありました。
『鎌倉殿の13人』にも、発声が巧みな人物がいますね。
僧侶である義円です。
彼は朗々たる声音で和歌を詠み、周囲を感心させていました。
義円が和歌を詠む場面は、独特の節回しでしたが、現在でも百人一首を読み上げるときには独特の節回しをします。
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こうした発声による判断基準が坂東に持ち込まれたのも、鎌倉時代という武士の世の草創期です。
なぜ声まで重視されたのか?
坂東武者たちは所領をめぐり、時には暴力沙汰におよぶ争いを繰り返してきました。
たとえば【曽我兄弟の仇討ち】も、伊豆国の武士同士で所領争いが勃発。
争いの最中、兄弟の父・河津祐泰が、工藤祐経に殺害されたことが発端となりました。
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しかし、いちいち所領争いで流血沙汰になっていてはキリがない。
そこで用いられたのが訴訟という解決手段です。
文書を提出し、審理は口頭で行う――それが鎌倉にも持ち込まれ、随分と進歩したようでいて、困惑する坂東武者も現れました。
口下手で、緊張してしまう。うまく話せない。
武士というのは「弓馬の道」を極めればよかったはずなのに、文書を作り読み上げるなんて無理だ! そんな世の中についていけない!
こうしたストレスから、暴発してしまう坂東武者もいたのですね。
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ドラマには登場しない人気の武将・熊谷直実もその一人ですので、一例を挙げてみましょう。
建久3年(1192年)、頼朝の前で久下直光との訴訟に挑んだ直実は、うまく受け答えができませんでした。
あまりの屈辱に、直実は「梶原景時の裏工作があったにちがいない!」と邪推して激怒。
景時は不運としか言いようがありませんが、彼のように弁の立つ切れ者は、嫉妬混じりの敵意にさらされることがあったのでしょう。
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明瞭な基準もない。
道理ではなく口のうまさで評価されるなんておかしい。
こんな不満が渦巻く御家人たちのトラブルを解決するためには、北条泰時の登場を待たねばなりません。
泰時はこうした訴訟の場において、声音や口のうまさでなく「道理が通っているかどうか」に興味津々でした。
道理が通った訴訟を聞くと、思わず感動して涙すら流してしまう。
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そんな泰時をみて、御家人たちは「嗚呼、なんて素晴らしい人なのか」と感心していました。
道理で考える泰時は集大成ともいえる「御成敗式目」を制定します。
見た目じゃない、口のうまさじゃない、道理で物事を解決しよう。
泰時の時代に、武士はそこまで進歩したのです。
ルッキズムは進歩と共に消えてゆく
なぜ、そもそもルッキズムがあったのか?
容姿以外による裁量基準がなかったからでしょう。
その証拠に、ルッキズムは人を判断する基準の進歩・多様化と共に衰退してゆきます。
『鎌倉殿の13人』は、見た目以外の判断基準が延びゆく時代の物語でもあります。
では、判断の多様化とは?
いくつか具体例を見て参りましょう。
◆文筆=教養
京都から来た文官である大江広元は、武芸でも見た目でもなく、教養が評価されました。
彼は京都にいたころ、明経生(明経道=儒学研究学科)であり、その中でも優秀な「明経得業生」に選抜されています。
大江広元のような文人下級貴族にとっては、任官されるには得業生になることは重要でした。
広元自身は「文士」と呼ばれていたものの、子孫の代には「武士」とされてゆきます。
京都由来の教養が武士の中に溶け合い、求められるようになっていったのです。
梶原景時のように、文筆を得意とする武士の評価がなされるようになってゆきます。そうなると武士たちも学問と教養を身につけるようになってゆくのです。
さらに鎌倉御家人のステータスシンボルとして「うまい和歌を詠むこと」が加わるようになります。
◆信仰心
源平合戦や幕府内の粛清を経て、武士たちは疲弊してゆきます。
彼らは神仏に救いを求め、厳かな宗教行事を行うようになりました。
寺に寄進する。
仏事を行う。
仏像を祀る。
そんな信仰心のあらわれが「徳の高い人だ」と敬意を集めるようになってゆきます。
◆ブランドとファッション
鎌倉からはしばしば海を越えてきた、宋や元の陶磁器が発掘されます。
時代がくだるにつれ、服装も華美になってゆきました。
平氏と戦っていた頃は「あんなチャラチャラした連中と俺らはちがうぜ!」と張り切っていた坂東武者たち。
しかし時代とともにブランド品やファッションで評価がされるようになっていったのです。
「うちにもそろそろ唐物(中国製品)の食器が欲しいなぁ〜」
こんな意識になっていったのですね。
今も鎌倉の浜辺では青磁のかけらを拾うこともできるといいます。
◆青磁鉢/神奈川県鎌倉市大町衣張山出土(→link)
こうなってくると「見た目だけで判断するなんてもう古いよな!」と変遷していく状況がご理解いただけるでしょう。
私には能力がある。才能がある。だから、見た目のことは言わないでください。貶されることは当然嫌だし、褒めるにせよ、それは何か違うでしょ――と、そういった主張は、何も現代のアスリートが始めたことではありません。
同じことを鎌倉時代の御家人に聞いてみても、納得してもらえるのではないでしょうか。
親の頃はそういう時代だから、見た目のことをああだこうだ言われたけど、自分達の時代はそうじゃない。もっと別のことで評価して欲しい。
歌も詠めるし、この前、買った青磁のセンスがいいと評判なんですよ……そうなっていったのが時代の進歩なのです。
ルッキズムなんてまるで言論封鎖だ。
そう嘆く前に、評価する基準が進化し多様化するからこそ、ルッキズムは廃れていったのだと歴史から学ぶことができるのではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
蔵持重裕『声と顔の中世史』(→amazon)
五味文彦『中世の身体』(→amazon)
他