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【千葉常胤】
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幼主が続いて困難まみれ
鎌倉幕府ができてからの千葉常胤について特筆すべき点はないようで、建仁元年(1201年)になくなったときは、84歳での大往生ということだけがわかっています。
そして、その後の千葉氏は難しい状況に追い込まれていきました。
常胤の息子の時代には、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の誕生祝いをするなど密接な関係にありながら、千葉氏には幼主が続き、家勢は衰退していくのです。
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やがて常胤の弟・千葉常秀の系統が主流になりましたが、北条氏に敗北。
千葉氏を含めた房総平氏(平忠常の子孫で平清盛とは関係ない平氏)の多くが没落していきます。
元寇の際は当主・頼胤が討ち死にしてしまい、嫡男・宗胤が九州に出向くというトラブルが起きました。
しかも
「その間、国元の仕事はどーすんだ!?」
↓
「弟さんの胤宗様にやってもらおう!」
というイヤな流れになり、「新当主vs新当主の弟」という、わかりやすい対立が起きます。
外国に攻め込まれてるときに悠長なものです。まぁ、当時の千葉からすれば、九州も外国みたいなものですけどね……。
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散り散りになっても生き残った
そのまま南北朝時代に入ると、胤宗の系統が宗家となり、宗胤の系統は九州に残って血を繋いでいくことになります。
千葉に残った宗家のほうも、応仁の乱の12年前に起きた享徳の乱(足利将軍家vs足利関東公方家の争いに関東の諸大名が絡んで長引きまくった戦)で滅亡同然になりました。
筆頭家老・原家が強大化したものの、太田道灌らが千葉氏の嫡流である実胤・自胤を擁立して下総に侵攻。
傍流に当たる千葉輔胤らが一時は追い返しながら、輔胤も現在の千葉市に居続けることはできず、佐倉市・酒々井町あたりに移動します。
その後も、互いに千葉氏の正当な嫡流を名乗りあって内紛が続き、最終的に輔胤の子孫が千葉氏の嫡流扱いとなりました。
どんどん嫡流から離れていってる気がしますけど(´・ω・`)
最後に、簡単に戦国時代も見ておきましょう。
千葉氏は、北から佐竹氏と小弓公方(千葉を本拠にしていた足利家の分家)、南から里見氏の脅威にさらされます。
そのため後北条氏と姻戚関係になって領地を保ったものの、安定したわけではなく、当主が続けて暗殺されるなど、またしても混乱に陥りました。
これだけ頻繁に乱れていて、よくぞ家名が残ったものですよね。
そうこうしている間に秀吉の小田原征伐が始まり、後北条方だった千葉氏も所領を没収。
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その後は一族散り散りとなり、東北から関東にかけてそれぞれ歴史の中に埋もれていったのですが……中には庄屋や豪農として、庶民よりは少し上の立場で落ち着いた者もいたとか。
「戦に勝つ」ことではなく、「何がどうなっても生き残る」ことを勝ちだとするのならば、千葉氏は勝者に分類されるかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝 (日本語)』(→amazon)
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
千葉常胤/wikipedia
千葉氏/wikipedia