承久の乱

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

承久の乱~なぜ後鳥羽上皇は義時へ戦を仕掛けたのか 鎌倉幕府を舐めていた?

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実朝 暗殺

後鳥羽上皇も、命名だけでは繋がりが薄いと判断したのでしょう。

実朝の夫人候補を探しに京へやってきた幕府の武士たちに、上皇にとって母方のいとこである坊門家の姫を許しています。

幸い、この夫婦は気が合ったようで、結婚後、特にトラブルの類は伝わっていません。

北条氏との関係も悪くなかったらしく、政子と実朝夫人が連れ立って、実朝の健康祈願に出かけたという話も伝わっています。

そのまま順調に行けば、実朝夫妻の間に子供が生まれたでしょう。

男子であれば上皇の親族が次期将軍となりますし、女子であっても今度は京へ嫁いで朝幕関係の要になったことは疑いないところ。

古い説ですと、実朝は「政子と義時の傀儡だった」と解説されたりもしますが、実際は、上記の妻選びだけでなく、例えば、ある橋の工事に際して「地元民が困るから早く再建せよ」と命じたり、自分の意志を見せた話は他にもあります。

それに対して鎌倉武士たちが異論を唱えたとか、不満を抱いたという気配もありません。文化的な活動に偏りがちだったことには、苦言を呈されたことがありますが。

むしろ実朝は、将軍就任直後から父の事績を細かく学び、良い将軍になろうとしていた記録があります。

『吾妻鑑』を見る限りでは、実朝のそういった動きに対し、政子や義時が封じ込めを図ったようにも見えません。

まあ、吾妻鑑がどこまで信用できるかという問題はあるのですけれども。

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源実朝は、百人一首で知られる藤原定家と文通して和歌を教わっていました。

定家を通じて後鳥羽上皇に実朝の人となりや和歌が伝わっていたことは想像に難くありません。

というわけで、少なくとも実朝の将軍就任からしばらくの間は、後鳥羽上皇としても

「今度の将軍は大人しいようだし、うまくやっていけそうならそれで良し」

としていた気配があります。

しかし、程なくして大事件が起きたため、その路線は途絶えてしまいました。

源実朝の暗殺事件です。

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後鳥羽上皇にしてみれば、この時点で北条氏は「二代続けて将軍を横死させた者ども」ということにもなる。

そんな状況で、幕府から「新将軍の候補として上皇の皇子を迎えたい」という申し出があっても、『危険なところに大事な息子を送れるか、ボケ!』という気持ちになったでしょう。

結局、このときは頼朝の遠縁にあたる三寅(みとら/九条道家の三男/後の藤原頼経)が将軍として送られました。

頼経、このときまだ1歳。

旅程の長さや当時の衛生環境などを考えると、鎌倉へ着くまでの間に亡くなってしまってもおかしくないレベルです。

実際は無事に鎌倉へ到着し、この後しばらく将軍職を務めています。

 


「もう武力討伐しかなくね?」

将軍職の継承以外にも、朝廷・幕府間で問題はありました。

前述した徴税の件です。

皇室や公家の直轄領(荘園)に幕府の役人(地頭)が来るようになった結果、本来の主である朝廷に税が届かないという事態は、この頃も続いていました。

荘園運営は、上皇の経済・政治基盤にも直結するわけで、いよいよ見過ごしてはいられない状況となったのです。

とはいえ、いきなり「戦争だ!」という話になったわけではありません。

朝廷側は書面で「チョットどうなってんのよ?」と幕府へ苦情を送っています。

幕府にしても折り合いの付け所を探っていたのですが、その決着前に源実朝が暗殺されてしまったため、余計に話がこじれてしまったのです。

後鳥羽上皇はもう一回ジャブを打ちました。

「私の側室の荘園では地頭を廃止してほしい」

しかし、その地頭というのが、執権・北条義時本人だったため、当然、突っぱねられます。

義時はそれだけでなく、弟の北条時房に千人もの兵をつけて上洛させるという、高圧的な態度を取ったのです。

さすがに、ここまでされたら後鳥羽上皇とて、義時への不信感は拭い難いものとなる。

「もはや武力討伐しかないのか……」と決意を固めることとなり、北条義時追討の院宣(上皇からの命令書)を出したのでした。

【勅命に応じて右京兆(義時)を誅殺せよ!】

院宣を出すと同時に三男である順徳天皇を味方につけ、まだ成立して30年ほどしか経っていない鎌倉幕府打倒の兵を起こしたのです。

順徳天皇も「退位した方が気軽に動けるから」という理由で、わざわざこの乱のため息子(仲恭天皇・当時3歳)に譲位するほど。

よく考えてみると凄い話ですよね。

順徳天皇のお兄さんである土御門(つちみかど)上皇と、他の温厚な貴族たちはこの戦に反対しましたが、もはや二人を止めることはできません。

かくして鎌倉幕府は「朝敵」とされ、上皇方の軍=皇軍と戦うことになったのです。

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