こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【承久の乱】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
尼将軍の大演説で幕府軍団結
皇軍はまず京都守護・伊賀光季を血祭りにあげて景気をつけ、幕府との連絡役だった貴族の西園寺公経父子を幽閉。
鎌倉に事の次第が伝わらないようにしました。
しかし光季は、殺される直前に幕府へ密使を出しており、西園寺家からも家司(けいし・エライ人の家政を担当している人)の三善長衡が鎌倉へ使いを出していました。
彼らは5月19日に鎌倉へ到着し、事の次第を幕府へ伝えます。
幕府側では、ほとんどの武士が朝廷との関係悪化を知りませんから、まさに寝耳に水。
「え、いつの間に俺ら朝敵になったの? 上皇様と戦うとか聞いてないんですけど……畏れ多いし、降伏していいですか?」
こんな風に気弱になる者も出たほどで、実際、西日本では多くの武士たちが上皇サイドにつきました。
そこで鎌倉方に活を入れたのが、北条政子の有名な演説です。
「かつてお前達は、頼朝殿に山よりも高く海より深いご恩を受けたというのに、この体たらくはどうしたことですか!
今こそそのご恩を返すときではありませんか!
上皇に従いたいというのなら、今すぐこの場で名乗り出なさい!!」(超訳)
細かいことをいうと、実際は原稿にあたるものを政子が作り、安達景盛という武士が代読したとされます。
いずれにせよ幕府が討たれては、彼らの大事な「所領の保証」すらままならなくなる恐れがあり、鎌倉武士団は一致団結。
京都へ軍勢を向けることとしました。
当初は「鎌倉に本拠地を構えて迎え撃とう!」という声もありましたが、そこに大江広元らが
「いいからとにかく西へ迎え! 泰時一人だけでも出陣すれば皆ついてくる!!」
と叱咤。
義時の息子である北条泰時が出発します。
同時に信濃・遠江より東の武士たちへ動員が命じられました。
泰時が慌ただしく出陣していくと、本当に武士たちがその後に続き、勢いがつきました。
幕府1~2万に対し、朝廷は1700騎程度
鎌倉からの討伐軍は、実は3つのルートで進軍していました。
兵数についてはかなり盛った数字ですが、比率はおおむね正しいのでしょう。
実際の兵数は、幕府軍1~2万に対し、朝廷軍1700騎程だったのではないかとされています。
あまり兵数が大きくても、兵糧の調達が間に合わず、結局、余計なロスを生じさせるだけです。
当時の史料は数字を盛る傾向が特に強く、おそらく皇軍の数に対して幕府軍が非常に多かったため、その驚きからかなり過大に盛られたのでしょう。
武田信光は武田信義の息子で、あの武田信玄のご先祖にあたり、結城朝光も戦国大名・結城氏のご先祖です。
武田信義~頼朝に息子を殺されても甲斐武田氏を守り抜いた生涯に注目
続きを見る
こういった歴史の接点を見つけた時って、なんだかワクワクしますよね。
北条朝時は泰時の弟です。のちに彼の子孫は「名越」という名字を名乗り、北条宗家と緊張関係になっていきます。
義時の二男・北条朝時は史実でもダメ人間だった?ラブレター事件を振り返ろう
続きを見る
上皇サイドで美濃にいた藤原秀康の弟は、敵の数に驚いたことで使者を出しましたが、10倍前後の敵に対して宮廷は即座に対処できませんでした。
ちなみに皇軍の内訳はというと
院の近習
北面・西面の武士
検非違使
僧兵の一部
西国守護(在京御家人)
などで、統制が取れていたとは言い難い状態。
そもそも、この倒幕計画自体が内々に進められたものであり、公家たちのほとんどが関わっていませんでした。
事が始まっても、具体的な軍議が開かれなかったというのですから、「なぜそれで勝てると思った……」とツッコまざるを得ません。
※続きは【次のページへ】をclick!