承久の乱

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

承久の乱~なぜ後鳥羽上皇は義時へ戦を仕掛けたのか 鎌倉幕府を舐めていた?

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尼将軍の大演説で幕府軍団結

皇軍はまず京都守護・伊賀光季を血祭りにあげて景気をつけ、幕府との連絡役だった貴族の西園寺公経父子を幽閉。

鎌倉に事の次第が伝わらないようにしました。

しかし光季は、殺される直前に幕府へ密使を出しており、西園寺家からも家司(けいし・エライ人の家政を担当している人)の三善長衡が鎌倉へ使いを出していました。

彼らは5月19日に鎌倉へ到着し、事の次第を幕府へ伝えます。

幕府側では、ほとんどの武士が朝廷との関係悪化を知りませんから、まさに寝耳に水。

「え、いつの間に俺ら朝敵になったの? 上皇様と戦うとか聞いてないんですけど……畏れ多いし、降伏していいですか?」

こんな風に気弱になる者も出たほどで、実際、西日本では多くの武士たちが上皇サイドにつきました。

そこで鎌倉方に活を入れたのが、北条政子の有名な演説です。

「かつてお前達は、頼朝殿に山よりも高く海より深いご恩を受けたというのに、この体たらくはどうしたことですか!

今こそそのご恩を返すときではありませんか!

上皇に従いたいというのなら、今すぐこの場で名乗り出なさい!!」(超訳)

細かいことをいうと、実際は原稿にあたるものを政子が作り、安達景盛という武士が代読したとされます。

いずれにせよ幕府が討たれては、彼らの大事な「所領の保証」すらままならなくなる恐れがあり、鎌倉武士団は一致団結。

京都へ軍勢を向けることとしました。

当初は「鎌倉に本拠地を構えて迎え撃とう!」という声もありましたが、そこに大江広元らが

「いいからとにかく西へ迎え! 泰時一人だけでも出陣すれば皆ついてくる!!」

と叱咤。

義時の息子である北条泰時が出発します。

同時に信濃・遠江より東の武士たちへ動員が命じられました。

泰時が慌ただしく出陣していくと、本当に武士たちがその後に続き、勢いがつきました。

 

幕府1~2万に対し、朝廷は1700騎程度

鎌倉からの討伐軍は、実は3つのルートで進軍していました。

◆東海道ルート(兵数10万) 北条泰時・北条時房三浦義村

◆東山道ルート(兵数5万) 武田信光・結城朝光

◆北陸ルート (兵数4万)北条朝時

本気になった幕府のため意外と大掛かりな進軍/図解 by 味っ子 wikipediaより引用より引用

兵数についてはかなり盛った数字ですが、比率はおおむね正しいのでしょう。

実際の兵数は、幕府軍1~2万に対し、朝廷軍1700騎程だったのではないかとされています。

あまり兵数が大きくても、兵糧の調達が間に合わず、結局、余計なロスを生じさせるだけです。

当時の史料は数字を盛る傾向が特に強く、おそらく皇軍の数に対して幕府軍が非常に多かったため、その驚きからかなり過大に盛られたのでしょう。

武田信光は武田信義の息子で、あの武田信玄のご先祖にあたり、結城朝光も戦国大名・結城氏のご先祖です。

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こういった歴史の接点を見つけた時って、なんだかワクワクしますよね。

北条朝時は泰時の弟です。のちに彼の子孫は「名越」という名字を名乗り、北条宗家と緊張関係になっていきます。

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上皇サイドで美濃にいた藤原秀康の弟は、敵の数に驚いたことで使者を出しましたが、10倍前後の敵に対して宮廷は即座に対処できませんでした。

ちなみに皇軍の内訳はというと

院の近習
北面・西面の武士
検非違使
僧兵の一部
西国守護(在京御家人)

などで、統制が取れていたとは言い難い状態。

そもそも、この倒幕計画自体が内々に進められたものであり、公家たちのほとんどが関わっていませんでした。

事が始まっても、具体的な軍議が開かれなかったというのですから、「なぜそれで勝てると思った……」とツッコまざるを得ません。

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