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【宝治合戦】
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「俺は北条義時の孫だぞ! 時頼は義時の曾孫ではないか!」
これまで盤石のように思えた北条氏の体制も、一族が増え過ぎたがため“我こそは執権になるべきだ!”と野心を抱く者が少なくなかったのです。
しかも名越光時の背後には“ある影”が見えました。
息子に将軍の座を譲っていた藤原頼経です。
光時は5代将軍・藤原頼嗣の近習であり、頼経とも親しい関係でした。
そんな陰謀を察知した時頼。
大軍を擁して相手を威圧し、名越光時とその弟・時幸を出家に追い込みます。
この事件は【宮騒動】と呼ばれ、その結果、藤原頼経は鎌倉を追われ、頼経の父・九条道家は関東申次職を罷免されるなど、将軍派は一気に力を削がれることになったのです。
逆に言えば、北条時頼の執権が確立したとも考えられるでしょう。
しかし、本当の危機が翌年に押し寄せるのでした。
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安達景盛が鎌倉へ
宝治元年(1247年)――暑い夏、鎌倉には不穏な気配が満ちていました。
羽蟻や黄色い蝶が乱れ飛び、不気味な魚が流れ着き、由比ヶ浜には血のように赤い潮が……迷信を信じる中世の人々にとって、深刻な脅威が押し寄せていました。
そんな鎌倉へ、高野山から25年ぶりに安達景盛が戻ってきます。
疑り深い頼朝に信用された忠臣・安達盛長~鎌倉幕府でどんな役割を担っていた?
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若い頃には、源頼家に妻を奪われた騒動が『鎌倉殿の13人』でも描かれ、新名基浩さんが演じていました。
景盛には頼朝落胤説もあります。
そうでなくても頼朝側近の子孫というプライドもあります。
源実朝にもよく仕え、嘉禄元年(1225年)に政子が没すると高野山に出家していました。
実は、北条との関係も浅からぬものがあります。
北条泰時の子である北条時氏の妻は、安達景盛の娘(松下禅尼)であり、二人の子である北条経時と北条時頼兄弟は、景盛の孫にあたる。
図にするとこうなります。
安達景盛
│
娘の松下禅尼(夫は北条時氏)
│
孫の4代執権北条経時・5代執権北条時頼
有力御家人として三浦氏に次ぐ安達氏は、執権外戚として権勢を強められる立場でもあったのです。
その景盛が鎌倉に戻った。なお、出家後は大蓮房覚智ですが、ここでは「景盛」で統一します。
短期間の代替わりによって、混乱していた北条氏。
北条の座を脅かす権威を持つものの、後ろ盾である将軍の権威を失った三浦氏。
そこへやってきた安達氏。
景盛は強硬でした。
執権の外戚として三浦の権勢を上回れるかと思ってもそう上手くはいかず、「なぜ三浦なんかの風下に甘んじているのか!」と子や孫に怒りをぶつけます。
御所に赴いては、若い執権・北条時頼を急かしました。
将軍派の首魁である三浦を見逃しては【宮騒動】が完全に片付いたとは言えない!
なぜ三浦を放置しておくのか!
そう挑発するものの、北条時頼は三浦との協調路線を模索していました。
そんな中、鎌倉殿・藤原頼嗣の妻であった檜皮姫が若くして亡くなります。
喪に服するため、北条時頼は三浦一門を束ねる三浦泰村を訪れ、和解のため話し合います。
泰村は、三浦義村の息子です。
と同時に三浦には、北条に屈することを良しとしない強硬派の弟・三浦光村もいました。
【親】三浦義村
│
【子】三浦泰村・三浦光村(二人は兄弟)
燃料が積もり積もっていくような状況。
ついには鶴岡八幡宮の社頭に、こんな文言が架けられました。
三浦泰村は、将軍家の命に背き、勝手な真似ばかりしている。近いうちに討伐されるだろう――。
時を同じくして不穏な噂も流れました。
武装した御家人たちが、三浦に味方すべく鎌倉に登ってきているというのです。
それでも北条時頼と三浦泰村は諦めず、なんとか和議にまで漕ぎつけます。
納得できないのが安達景盛でした。
三浦一族500名が法華堂にて自刃
宝治元年(1247年)6月5日、安達景盛は強硬手段に出ます。
和議をまとめるため、北条時頼の腹心である平盛綱が三浦邸を訪問したことを知ると、孫の安達泰盛に命じ、武装した集団で三浦邸を襲撃させたのです。
驚いた三浦泰村は急いで迎撃の構え。
将軍派、三浦に味方する御家人、三浦半島から一族が駆けつけました。
こうなると北条時頼もやむなく、三浦討伐の決意を固めるほかありません。
北条時頼も、三浦泰村も、さらには安達景盛も……。
無益な殺戮は望んでいない。
しかし、ひとたび火のついた鎌倉武士が戦わずして矛を収めるわけもなく、両軍は激突。
三浦邸が焼け出されると、元々戦意の無かった三浦泰村の願いはひとつでした。
「頼朝公の御影前で死のう……」
そして一族郎党は法華堂に向かい、幼い子も含めて命を絶ってゆきました。
三浦泰村は大勢の人を滅ぼした父・三浦義村の所業を思えばやむを得ないと語り、その弟である三浦光村はなおも交戦の意思を示すも、兄に強く言われ、やむなく法華堂へ向かいました。
光村は、己の顔を見分けられたくないと、刃を顔面に当て、肉を削ぎ、血まみれの顔で息絶えます。
三浦一族は、幼子まで含めておよそ五百名が自刃し、果てました。多くの女性と子供たちは出家させられました。
【宝治合戦】と呼ばれるこの戦いは、『鎌倉殿の13人』で描かれた悲劇と同様、非常に後味の悪い結末となったのです。
ただし、三浦一族が滅亡したわけではありません。
北条泰時と離縁した妻・矢部禅尼(『鎌倉殿の13人』では初)の子である佐原流は存続しており、三浦一族は再興されました。
騙し討ちのように三浦氏を追い込んだ安達氏は、弘安8年(1285年)の【霜月騒動】により滅びに瀕しています。
一方、5代執権・北条時頼は、最大最強の御家人・三浦一族を打ち果たし、盤石な権力を手にしました。
★
源頼朝の亡き後、壮絶な権力闘争が行われた鎌倉。
梶原景時が御家人たちから弾劾され、比企能員と畠山重忠が北条時政に討たれ、さらには和田義盛も北条義時に滅ぼされる。
これでいい加減終わりだろう……と思いきや、三浦義村の子である三浦泰村・光村もまた、理不尽な粛清の手により亡くなってしまいます。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、追い詰められた源頼家が、和田義盛と三浦義村にこう叫びました。
比企のあとは、和田と三浦だ!
何やら苦し紛れに放ったようにも見えたこの言葉。
実は予言でもあったのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
細川重男『宝治合戦』(→amazon)
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon)
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon)
坂井孝一『源氏将軍断絶』(→amazon)
高橋秀樹『北条氏と三浦氏』(→amazon)
高橋秀樹『三浦一族の中世』(→amazon)
他