新田義貞

新田義貞の騎馬像

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで

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尊氏「出家して帝に詫びる!」

尊氏征伐の綸旨を受けた新田義貞

兵を東海道・東山道の二手に分け、凄まじいスピードで東へ向かうと、三河・矢作川を超えて鎌倉に接近します。

この段階で、尊氏方から義貞方についた武士も多かったようです。

一方、尊氏としては後醍醐天皇に反逆したつもりはなかったので、この報告を受けてかなり動揺し

「出家して帝に詫びる!!」

と、ダダをこねたとされています。

そこで足利直義らが「偽の綸旨」を用意して尊氏を押し留め、尊氏も天皇より一族郎党を重視して出陣します。

そして建武二年(1335年)12月に激突!

新田義貞軍は箱根で尊氏軍に敗れ、西へ逃げ帰らざるを得なくなってしまいます。

尊氏・直義軍はそれを追いかける形で西上し、それをさらに追って北畠顕家軍が追討に向かいます。

この追いかけっこ、壮大過ぎる。

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「義貞敗北、尊氏西上」の報を受けた後醍醐天皇は、建武三年(1336年)1月、比叡山に逃れ、尊氏軍は京都に入りました。

一方、顕家軍は鎌倉を落としてさらに西上し続け、尊氏が入京した後、近江・坂本で義貞や楠木正成らと合流します。

そして顕家・義貞・正成らによって足利軍を京都から追い出すための総攻撃が始まり、不利になった足利軍は丹波経由で九州まで落ち延びていきました。

後醍醐天皇が京都に戻ると、義貞には尊氏追討のため西へ向かうよう命が下ります。

一方で顕家は奥州へ戻り、東国の足利方を警戒するよう命じられました。

 

ディスられる義貞

『太平記』では、この辺りから“新田義貞をディスる話”が二つ差し込まれています。

一つが「勾当内侍(こうとうのないし)」に関する話です。

勾当内侍という女性にうつつを抜かして出発を遅らせた、というものであり、彼女は宮廷に仕える女官の一人でした。

義貞が以前、垣間見したことがあり、一目惚れしたとされています。

そして、それを知った後醍醐天皇が褒美として下賜すると、義貞はその美女にすっかり骨抜きにされてしまい、軍の体制を整えるのが遅れた結果、湊川の敗戦に繋がる……というものです。

しかし、「勾当内侍」というのは個人名ではなく、女官の役職名であり、それほどの美女がいたのかどうかも確実ではありません。

また、彼女といちゃついていたとされる時期、新田義貞は瘧(おこり・マラリア)に罹って寝込んでいたともいわれています。

つまりこの話は「義貞は色ボケしたアホ」という印象操作をするための創作という見方もできてしまう。

義貞にはこの時点で既に三人も息子がいました。

勾当内侍以外では、特に女性に関する失敗談は残されていませんので、普段から常軌を逸する好色タイプではなさそうなのです。

まぁ、だからこそハマったときの落差がすごかった――という可能性も否定できませんが、近年では「ゼロから盛りすぎた話では?」という見方も強いようで、勾当内侍に関する話はあまり触れられなくなってきましたね。

もう一つのディスリエピソードは、新田義貞が播磨・白旗城の赤松円心にしてやられた……というものです。

「播磨守護の座をくれるなら、帝につこう」

円心がそのように持ちかけてきたため、義貞は後醍醐天皇へ使者を立て、返事を待ちました。

その間に兵糧を運び込んだり、城の修繕を済ませてしまったり。

実は円心は、すでに播磨守護の座は尊氏から認められていて、要は時間稼ぎのために義貞を騙したのです。

むろん義貞は怒り、白旗城を囲んで籠城戦を挑みました。

しかし籠城戦は、城の防御力に比例して城方が有利となってゆきますから、攻める方が大軍でないと、何も成果を挙げられずただただ時間を浪費することになってしまう。

そうこうしているうちに尊氏が九州で兵を集めて近畿地方へ戻ったため、義貞はいったん引き、兵庫で尊氏軍を防ごうとしました。

一方、そのころ楠木正成は、後醍醐天皇に以下のような献策をしています。

「義貞は役に立たないからクビ(物理)にして、尊氏と和睦したほうがいいですよ」(超訳)

「帝には再び比叡山へ避難していただき、尊氏軍を京都に誘い込んで兵糧攻めすれば勝てるでしょう」

しかし、正成の案はどちらも受け入れられず、逆に正成が西へ向かって尊氏軍を迎え撃つように命じられます。

 

湊川の戦い

後醍醐天皇の無謀な命令に従い、仕方なくやってきた楠木正成。

そんな正成と播磨で再会した義貞は「城ひとつすら落とせず面目ない。このまま退いてはあまりにも恥なので、せめて尊氏らに一矢報いたい」と語っていたとか。

正成は「貴方に大きな落ち度があったわけではない。戦うべきところと退くべきところを見誤らないでください」と励ましたそうです。

ただし『太平記』の記述なので、どこまで事実か不明です。

もしかしたら吹っ切れた正成が

「これで最期だから、今更言い争っても仕方がない」

「自分の意見は容れられそうにないし、ここで死ぬつもりだが、義貞とその兵だけでも逃げられれば天皇方の戦力は残せる」

と割り切っていた可能性もあるでしょうか。

そこで迎えるのが、正成最期の戦いとして知られる【湊川の戦い】です。

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この敗戦により、義貞は場所を変えて再戦を挑んだ(そして負けた)にもかかわらず

「お前が逃げたせいで正成が死んだ!」

という扱いを受けることになってしまいます。

それをいうなら、政略にも戦略にも失敗しまくってる割にメンツだけは守ろうとした後醍醐天皇と朝臣たちの責任のほうが大きいでしょう。

この時点で新田義貞まで討死していたら、南朝で実戦で働ける武将は誰もいなくなってしまいます。

顕家は(本来は)貴族ですし、この頃は東北にいますし。

護良親王が京都に留まって生き延びていれば、ここで重要な役割を果たせていたのでしょうけれども……。

義貞は京都へ戻り、敗れたことを報告した上で、パニックに陥った貴族たちと後醍醐天皇を連れ、近江へ逃れました。

今度は、足利軍が坂本を攻め、新田義貞らが防戦という状況になります。

結果、京は足利方に占拠され、坂本では食料が足りなくなって降参する者が現れ始めました。

尊氏は後醍醐天皇に戻ってきてほしかったのですが、抗戦を主張する義貞以下の新田軍をどうするかが次の問題となります。

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