新田義貞

新田義貞の騎馬像

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
新田義貞
をクリックお願いします。

 


鎌倉幕府を倒したのはこの人なのに

軍を三手に分けても切通しをスムーズに通ることができないのは前述の通り。

巨福呂坂では堀口隊と最後の執権・赤橋守時隊が激戦を繰り広げました。

守時は尊氏の妻の兄でもあるため「身内から裏切り者を出した」ことを恥じており、潔く戦って自害したといいます。

しかし堀口隊はそれ以上進めませんでした。

同時間帯の極楽寺坂でも、北条一族の大仏貞直隊相手に大館隊が苦戦し、宗氏らが討ち死に。その報告を受けた義貞が21日には極楽寺坂へ向かい、大勢を立て直します。

もう一方の化粧坂では新田義貞の弟・脇屋義助が任されて善戦しながら、やはり突破はできませんでした。

幕府軍にとっては、鎌倉の防御能力を最大限に生かした形ですね。

そこで5月21日、義貞は三つの切通しからの侵入を断念すると、極楽寺坂の南方・稲村ヶ崎から浜辺沿いを進み、由比ヶ浜から鎌倉へ入ることに決めます。

しかしこのルートは文字通りの波打ち際。

渡っている途中で満潮になろうものなら、鎌倉攻略どころではなくなってしまいます。

義貞がここへ来たときも満潮に近い状態だったらしく「これじゃ渡れませんよ」と尻込みする者もいたとか。

それに対し、義貞が黄金造りの太刀を海に捧げ、波が引くように祈ると、潮が引いて騎馬でも進めるようになった……という伝説があります。

・潮の満ち引きがたまたま合っただけ

・義貞が潮の引くタイミングを知っていただけ

・そもそもこの話がまるごと創作で、実際に突破したのは極楽寺坂

などの可能性も高いでしょうか。

このエピソードは義貞の見せ場として長く語り伝えられ、月岡芳年の手で浮世絵となりました。

芳年の描いた義貞はなかなかカッコよく、義貞をメインで扱っている書籍の表紙によく使われていますので、既にご存知の方も多いかもしれませんね。

太刀を海に投じる新田義貞(月岡芳年画)/wikipediaより引用

こうして義貞軍は21日に鎌倉市街へなだれ込み、北条氏を撃破。

22日に東勝寺で最後の得宗・北条高時を含めた一族の多くが自害し、わずかな生き残りは散り散りになりました。

義貞の挙兵から2ヶ月、鎌倉への進行を開始してから4日ほどで決着がついたことになります。

北条高時
鎌倉幕府の滅亡!北条高時の最期は「腹切りやぐら」で一族ほぼ自害の悲劇

続きを見る

このときの戦死者は由比ヶ浜に埋葬されたらしく、なんと20世紀にもそれらしき壮年男性の遺骨が大量に見つかっています。

義貞も何もしてなかったわけではなく、幕府方の使者を弔うために九品寺(鎌倉市材木座)を建てているのですが、それは建武三年(1336年)になってからなんですよね。

その間のことは……あまり考えないでおきましょう。

 


どうしてもライバルに人気で勝てない

こうして鎌倉を攻め落とし、一躍時の人となった新田義貞。

もちろん足利高氏も六波羅探題を落としており、河内では楠木正成が千早城で幕府軍を引き付けるなど、それぞれに大功がありました。

しかし本来ならば、鎌倉を攻略した義貞が第一の功労者と扱われて然るべきところ。

ですが倒幕を果たした後、周囲の人々は

官位・家柄・人格】

の三拍子揃った足利尊氏(ただし躁鬱の兆候あり)ばかりをチヤホヤし始めます。

これは鎌倉攻略時に足利千寿王と足利氏の一族が加わったことにより、

「鎌倉を攻め落としたのは足利・新田連合軍だ」

と認識されていたこと、そして高氏が朝廷から官位を受けていた=目上だったことによります。

義貞を支持する者もいましたが、中には足利・新田両方に連絡していた武士もいたそうですので、それを差し引けばお察しというところ。

義貞はさぞ悔しかったことでしょう。

鎌倉幕府を落としたことはもちろん、その後の鎌倉で戦後処理に奔走し、北条の残党狩りを行ったのは義貞なのですから。

ビッグネームでいえば、北条高時の庶子・邦時が義貞の手の者によって処刑されています。

邦時は「母方の伯父である五大院宗繁に裏切られて新田方に差し出された」という流れで命を落としているため、義貞の手柄というには胸が悪くなる話ではありますが……。

この辺は少年マンガ『逃げ上手の若君』の序盤でも描かれていましたね。

作中では五大院宗繁について「鬼畜大賞1333」「日本史上屈指の鬼畜武将」といった秀逸な表現がされています。

個人的には「日本胸糞大賞(将)」とでも呼びたいところです。

 


尊氏と比較して義貞に対する恩賞は?

話を新田義貞に戻しましょう。

鎌倉幕府の滅亡後は義貞も何とか認めてもらうべく、上洛して自分と一族に官位をもらいました。

新田義貞:従四位上と上野・越後・播磨国司

長子の新田義顕:従五位上と越後国司

弟・脇屋義助:駿河国司

一族で四カ国を得た――そう見れば悪くはないのですが、以下のように足利兄弟と比較すると、出遅れた感は否めません。

足利尊氏:従三位と武蔵・常陸・下総国司 「尊」の字を後醍醐天皇からもらう

足利直義:従四位と遠江・相模国司

倒幕一番の立役者に対する褒賞としては不足と言えるでしょう。

おそらく義貞には元々官位がなかったので「いきなり尊氏と同等にはできないから、とりあえずコレな」という扱いをされてしまったのではないでしょうか。

朝廷ではよくやる形ですけれども、義貞や新田一族としては歯がゆかったはず。

この後、義貞ももう少し良い扱いを受けられるようになります。

まずは武者所長官を任されました。

武者所は後醍醐天皇の親衛隊と警察を合わせたような機関で、新田一族の者が多く所属しました。

左衛門佐・左兵衛督などの官職も歴任しています。どちらも律令制の官職名なので、物語や日本史上でたびたび登場しますね。

左衛門佐は衛門府という役所の次官です。「門」とつく通り、内裏の門の警備や出入りする人の取り調べなどが仕事です。

後年では真田幸村(信繁)の官位としても有名ですね。

真田幸村(真田信繁)
真田信繁(幸村)は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?最新研究からの考察

続きを見る

余談ですが、衛門府のトップは衛門督(えもんのかみ)といい、源氏物語の柏木がこの役職でした。

というか衛門督の雅称が「柏木」なので、紫式部は先に官職を決めてその雅称を名前扱いにしたのかもしれません。源氏物語の登場人物はいかにも実名らしい名前がつけられていませんしね。

左兵衛督は兵衛府という役所の長官で、天皇や皇族の警備を担当。

こちらは【建武の新政】の頃から武家に与えられるようになっていきます。武者所とも重なる部分があるため、義貞に与えられたのでしょう。

また、いずれも天皇や内裏の近辺に仕える職であり、義貞をはじめとした新田氏に一定の信頼があったとも考えられます。

建武の新政
建武の新政はあまりにお粗末「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて

続きを見る

 

建武の新政と中先代の乱

こうして始まった後醍醐天皇の主導による新しい政治。

真っ先に尊氏を警戒した護良親王が逆に讒言されると、鎌倉にいる尊氏の弟・足利直義(ただよし)に預けられ、足利氏の動きが怪しくなってきます。

新田義貞の動きはわかっていません。

もしも倒幕前に護良親王から令旨を受けていたのなら、親王から何らかの命を受け、軍を率いていてもおかしくないのですが……義貞が尊氏との対決を避けたのか、それほど深い信頼関係ではなかったのか。

しかし建武二年(1335年)7月になると、義貞は尊氏の動きに黙っていられなくなります。

このとき、北条本家の生き残り・北条時行と彼を奉じる諏訪氏らが、鎌倉を取り戻すため【中先代の乱】を起こしました。

尊氏は、後醍醐天皇の許可も得ずに東下し、鎌倉を奪還。

ドサクサに紛れて護良親王を殺し、鎌倉で征夷大将軍を名乗ると、関東の土地を自分の配下に配り始めました。

義貞にはあまり関係ない……と思いきや、この「勝手に配られた土地」の中に、義貞の領地が入っていたのですから穏やかではありません。

武士が勝手に所領を奪われ、怒らないわけがない。

この流れにより、尊氏と義貞は文書上でレスバみたいなケンカをしています。

どちらも朝廷に宛てて出されたもので、尊氏の言い分から見てみましょう。

・義貞は尊氏の六波羅攻略を知って乗っかろうとしただけです

・千寿王が新田軍に合流したおかげで兵が用意できた=義貞単独では幕府を倒せなかったはずです

・尊氏が時行征伐で苦労している中で義貞は楽をし、朝廷に讒言している! けしからんので討伐させてください!

対して義貞はどんな内容を送っていたのか?

・尊氏は名越高家(北条一族の人)が戦死したから天皇方についただけです

・私が上野で挙兵したのは5月8日、尊氏が六波羅を攻めたのは7日なので六波羅攻略の連絡が届くわけがないし、便乗しようとしたなんてただのイチャモンです

・足利は勝手に護良親王を殺したし、成良親王をないがしろにしています

・ですので尊氏と直義は討伐すべきです!

同じくなかなか激しい口調で反論されていますね。

尊氏の意見は、だいぶフワッとしている上に当時の情報伝達事情ではありえないことまで含まれており、義貞のほうが説得力を感じます。

しかし決定的ではなかったようで、朝廷では、どちらを信じるべきか散々意見が割れ、最終的には「義貞の意見がもっともだ」ということになりました。

護良親王の最期に立ち会った女房が、ちょうど京都に戻って報告したため、それも後押しになったとか。タイミングが抜群ですね。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-源平・鎌倉・室町, 逃げ上手の若君
-

×