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【新田義貞】
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後醍醐天皇は新田氏を切り捨て
後醍醐天皇はどうしたのか?
というと新田氏の切り捨てを密かに決めてしまいました。
『太平記』では、これを知った新田一族の堀口貞満が、京都に戻る後醍醐天皇の車に取りすがり、涙ながらに訴えたというシーンがあります。
一言でまとめると
「我ら一族はこの戦で多くの者を喪ったのに、義貞に何も知らせず尊氏との和睦を結ぶとはあんまりな扱いではありませんか。
お見捨てになるのならば我ら全員の首をはねてください!」
といった感じです。
堀口がそう訴えたくなるのも無理ない話であり、後醍醐天皇の判断はさすがにあんまりでしょう。
後醍醐天皇としては一応「和睦は一時的なもののつもりで、情報漏洩を防ぐために知らせなかったんだ」と義貞たちに説明しています。
しかし「義貞は怒りを抑えきれず顔に出ていました」(超訳)とまで書かれています。
後醍醐天皇は血筋を残す目的もあってか、義貞に「恒良親王と尊良親王を奉じて越前へ向かうように」と命じていますが、この経緯が事実であれば厄介払いの香りもしますね。
かくして後醍醐天皇は和睦のため京都へ入り、尊氏の奉じる光明天皇に【三種の神器】を渡して譲位した……ことにしましたが、その後、京都から逃げて吉野にたどりつき、突如、宣言します。
「私は譲位なんてしてましぇーん!」
本格的な南北朝時代の始まりです。
北陸にて
新田義貞が向かわされた当時の北陸は、一体どんな状況だったのか。
越前では、義貞の弟・脇屋義助が国司を務め、新田氏の支族である堀口貞義という人が守護を任されていました。
いわば新田氏の根拠地となっていたわけですね。
しかし、そこへ向かう道中は厳しいものでした。
足利軍の追撃があったり、寒さによる凍死者が続出したり、あるいは悩んだ末に降伏する者が出るなどの苦難があったのです。
残った義貞一行は、どうにかこうにか金ヶ崎城へ辿り着き、新たに兵を集めて、態勢を立て直します。
しかし、翌建武四年(1337年)1月、幕府から高師泰が討伐に派遣されてきました。
新田軍は城に籠もってどうにか応戦するも、兵糧が尽きたこともあって3月6日に落城。
義貞は脱出に成功しましたが、恒良親王は捕えられ、尊良親王と義貞の嫡子・新田義顕はここで自害という悲惨な結末になりました。
足利方はこれで親王を二人手にかけたことになります。
義貞は杣山城(そまやまじょう・福井県南条郡南越前町)に移り、3月14日に再び兵を集めていますので、闘志のほどがうかがえます。
一方、同年8月には奥州にいた北畠顕家が再び西上を始めました。
顕家は、自身の留守中に奥州で優勢になっていた足利方を撃破していたのですが、後醍醐天皇をはじめ、あっちこっちから遠征を求められ、仕方なく応じることにしたのです。
顕家が出立したことを知った後醍醐天皇は、すかさず義貞を始めとした各地の南朝方に呼応するよう命じました。
もちろん義貞もこれに従うのですが……。
延元三年(1338年)2月に杣山城から出撃して越前国府を占拠。
その少し前の1月28日に北畠軍が美濃・青野ヶ原で足利軍を破っていたため、近江近辺で新田軍が合流することも不可能ではありませんでした。
しかし連絡がつかなかったのか、それとも別の理由があったのか、新田軍と北畠軍はこの後も別々に戦い続けます。
理由としては
・顕家が義貞の戦果を妬んだ
・北畠軍に加わっていた北条時行が合流に反対した
などが挙げられていますが、定かではありません。
東北武士を実力で従わせてきた北畠顕家や、父の仇と取れなくもない南朝に降った北条時行にしては、少々幼稚で違和感がかなりありますね。
時行については経緯が経緯だけにまだわかるにせよ、顕家は義貞と比べて身分も実績もあります。
前回の京都争奪戦では連携もしていたわけで、妬むようなところは皆無と言えるでしょう。
この後、北畠軍は直接京都へ向かわず、なぜか伊勢方面へ向かっていることも気にかかります。
これは完全な憶測ですが、新田・北畠両軍が直接連絡できなかったため、後醍醐天皇を経由して何らかの情報を得ようとしたのかもしれません。
連絡がいつになるかわからない状態では、しばらく足利方との戦闘を避けられるような地点に移動したかったでしょうから。
ともかく詳細は不明ながら、この連携が上手く機能しなくなったことで、南朝方は決定的に不利になりました。
結束力では足利よりも上なはず……
北畠軍は伊勢・奈良を経由して河内方面から京都へ進軍しようとします。
しかし、途中で足利軍に阻まれると、5月22日には進退窮まって顕家が自害。
この間、義貞はひたすら北陸で戦い続けていましたが、自ら閏7月2日に藤島城(福井市)攻めの救援に向かったところ、道中でばったり足利方と遭遇し、閏7月7日に深田の中に落とされたところへ矢を射掛けられ、自害したとされています。
義貞の戦力は50騎、足利方は300騎だったとされているので、田んぼに落ちなくても多勢に無勢だったでしょうね……。
このときばかりは義貞のフットワークの軽さが仇になった形です。
かつての鎌倉攻めのように、自ら動くことで士気の低下を防ぎ、現地の状況を見て適切な戦略を考えるつもりでいたのでしょう。
勝った回数もそれなりに多いのですが、負けたときのインパクトがデカすぎるためか、義貞はやはり正成や尊氏より一段低く見られがちです。
しかし
・地元での逸話
・義貞に直接歯向かった身内がいないこと
・息子や甥たちが彼の死後もかなり頑張っていること
などから考えると、一族の長としては優れた人物だったのではないでしょうか。
地元群馬県では『上毛かるた』の「れ」に採用されていたり、明治時代には正一位を与えられているなど、公的には悪い扱いではありません。
都内では、分倍河原駅前にある新田義貞像が、なかなかカッコ良い構図で作られています。
政治力が足りなかったのは事実ですが、それをいうならそもそも後醍醐天皇のほうが……。
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸 純夫『新田義貞(人物叢書)』(→amazon)
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
ほか