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【二階堂行政】
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公文所が政所に変更 その次官に
二階堂行政はこの後も鶴岡八幡宮の工事や儀式、その他裁判や訴訟の場面で多く登場します。
広元や善信が本人の言動を書き留められているのに対し、行政が他の人々の言動や、記録・書面を記す役として登場することがほとんどです。
忠実な書記といった働き方は、生涯変わらなかったのではないでしょうか。
次に登場するのは、建久二年(1191年)1月15日。
この日、公文所が政所(まんどころ)と改められました。
これに伴って、問注所(もんちゅうじょ)や侍所(さむらいどころ)、公事奉行人(くじぶぎょうにん)などが任命し直されています。
もちろん主要人物の顔ぶれは変わっておらず、大江広元が政所別当、行政がその次官、問注所執事に三善康信などが担当。
公文所の寄人だった中原親能は、新設された公事奉行人になっています。
この時期はまだまだ、京都出身者の割合が高いですね。
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同年10月25日には、鶴岡八幡宮の遷宮(せんぐう)に伴う実務について、行政や善信などが話し合い、頼朝に報告したと書かれています。
八幡宮の別当も同席し、口添えをしたとか。
また「宮人曲(みやひとぶり)」という神楽を歌う役として、当時一番の名人と呼ばれた多好方(おおのよしかた)を京都から呼ぶことがありました。
このとき、好方が京都へ帰る際の餞別を行政らが手配しています。
相変わらず地味……と思われるかもしれませんが、合戦が終わり、政権の安定には欠かせない役目なんですよね。もう少しお付き合いください。
翌建久三年(1192年)には後白河法皇が薨去し、鎌倉でも35日法要や四十九日法要が執り行われました。
この件についても、僧侶への指示やお布施の手配を行政が請け負っています。
共に働いたのは頼朝の右筆・中原仲業(なかはらなかなり)。
仲業は中原親能(ちかよし)の家人でしたが、彼もまた行政や親能と同様、文官不足の鎌倉において、さまざまな役割を受け持った人です。
頼朝が行政邸を訪問した
源頼朝が行政の家を訪れたこともあります。
建久三年(1192年)8月24日、二階堂永福寺の庭に、池を掘らせる工事がありました。
頼朝はこの工事を監督するため、前日から近隣にある行政の屋敷に宿泊したのです。
工事が始まると、一丈(3m)ほどの石を畠山重忠が一人で運んで立てたので、皆剛力ぶりに感心したとか。
時系列が前後しますが、重忠は一ノ谷の戦いで義経軍の将として戦い、かの有名な”鵯越の逆落とし”で
「大切な馬を傷つけるわけにはいかない」
といって、なんと自分が馬を担いで坂を降りたとまで言われています。
さすがに事実ではないでしょうが、重忠が怪力の持ち主だったからこそ、このような逸話が生まれたのでしょう。
工事が終わった後、頼朝は再び行政の屋敷を訪れ、宴となりました。
行政邸にどのくらい滞在したのかはわからないのですが、
「三浦義澄ら宿老たちが酒一甕(かめ)、肴一品を持ち寄ってきた」
とあるので、割合賑やかな宴だったのではないかと思われます。
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文官として頂点・政所別当に就任
地道かつ誠実に役割を勤め上げたことが評価されたのでしょう。
建久四年(1193年)、二階堂行政は「民部大夫(みんぶだゆう)」と称されるようになりました。
これ、本来は、民部省の役人の中で特別な立場にある人のことを指します。
具体的には、上から三番目の役職である大丞(たいじょう)・小丞(しょうじょう)を務めている人のうち、五位にある人を「大夫」と言ったものです。
同じく建久四年、政所の別当が複数制になった際、行政もその一人に選ばれました。
幕府の政治面における大黒柱とも言うべき大江広元と同格になったのですから、文官としてはほぼ頂点。
広元は京都に行って仕事をすることも多かったため、留守中の政所の指揮を任せられる人材として、行政が選ばれたのだと思われます。
自分の個性を磨くことって本当に大事ですね。
翌建久五年(1194年)3月9日には、行政の子・二階堂行光も政所で働き始めたことが記録されています。
ちなみに、行光の兄・二階堂行村は武人肌の人物だったようで、この後、和田合戦で戦功を立てています。
生没年不詳だが穏やかな死だったのでは
他の御家人同様、頼朝死去前後の動向は伝わっていません。
次に行政が登場するのは、頼朝の死から4ヶ月ほど経った建久十年(1199年)4月12日、十三人の合議制が定められた時のことです。
年齢のせいもあってか、二代将軍・源頼家時代の登場はほんのわずか。
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建仁三年(1203年)3月15日に永福寺で一切経の奉納があり、頼家が臨席した後、行政の家に立ち寄ったこと。
同じく建仁三年11月15日に鎌倉にある寺社の担当者を決め直した際、行政が薬師堂の担当者の一人に選ばれたこと。
この二点のみです。
以降の二階堂家は、息子である行村や行光ばかりで、行政の死去に関する記述すらありません。
生没年が不詳なのです。
あくまで予想ですが、薬師堂の担当に任じられて間もなく亡くなったのかもしれませんね。
建暦三年(1213年)4月28日には行政の孫・二階堂基行(もとゆき)も登場しているため、この頃には完全に世代交代していたはずですから。
どうにもスッキリしませんが、特に鎌倉時代初期においては
【記録に残らない≒畳の上で亡くなった】
といっても過言ではありません。
北条義時らの画策などにより、多くの人物が「乱」や「変」で亡くなったことを考えれば、行政の死はかなり穏やかだったのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
五味文彦『増補 吾妻鏡の方法〈新装版〉: 事実と神話にみる中世』(→amazon)
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)