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【二階堂行政】
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上申書に五頭の奥州馬
二階堂行政は、そうした緊張関係にある相手に関する仕事を任されたことになります。
このとき彼が作った書類は「上申書」といって、
「これこれの品物を献上します」
という、目録と報告書を兼ねたような位置づけのものでした。
主な献上品が馬でしたので、馬の毛色も記述されています。
鹿毛斑(かげぶち)
葦毛斑(あしげぶち)
黒栗毛(くろくりげ)
栗毛(くりげ)
連銭葦毛(れんぜんあしげ)
違う色の馬が一頭ずつ計5頭。
おおむね字面通りの色なのですが、少し補足しておきましょう。
鹿毛と栗毛は、どちらも全体的に茶褐色です。違いは、たてがみや脚に黒い色が入るかどうか。黒が入るなら鹿毛、入っていなければ栗毛となります。
”黒栗毛”はやや黒っぽい栗毛を指します。
葦毛は肌が黒く、毛が灰色~白い馬のことです。加齢が進むとどんどん毛の色が白くなるため、白馬と見間違えられることもあります。
近年の有名な例では、オグリキャップですね。若い頃の写真では肌の黒い色が見えていますが、加齢に従って毛が白くなり、肌の色がほとんど見えなくなっていました。
連銭葦毛は葦毛の馬に、銭のような白い斑模様が入っているものです。
ここでは連銭芦毛と葦毛斑を分けて書いていますので、「葦毛をベースとした、異なる斑模様の馬が一頭ずつ」ということになります。
余談ですが、連銭芦毛は武士に好まれた模様の一つで、織田信長が愛したともいわれています。
また、黒田長政騎馬像に描かれている馬も連銭芦毛です。
鶴岡八幡宮寺の供養で馬八頭の検査
もう一つの馬に関する話題は文治五年(1189年)。
この年5月19日に、翌月行われる鶴岡八幡宮寺・三重塔の完成供養で、お布施に用いる馬八頭の検査を行いました。
二階堂行政は、藤原俊兼・平盛時とともに、検査の指図を務めています。
このときは千葉常胤や三浦義澄など有力な御家人や、甲斐源氏の加賀美遠光など、広い意味での源氏一門が一頭ずつ馬を用立てていました。
それぞれの毛色と、献上した人の名前は以下の通りです。
河原毛(かわらげ):千葉常胤
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葦毛(あしげ):小山朝政
鴾毛(つきげ):三浦義澄
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黒毛:加々美遠光
栗毛:源頼兼
黒栗毛:安田義定
糟毛(かすげ):佐々木高綱
黒毛:大内惟義
河原毛(かわらげ)は黄褐色~亜麻色の毛色で、たてがみや脚が黒い馬です。
鴾毛(つきげ)は”月毛”とも書き、クリーム色~淡い黄みを帯びた毛色のこと。極めて毛色が薄い個体の場合は、白馬と見間違えるほど白い毛を持ちます。
糟毛(かすげ)は栗毛や鹿毛に白い毛が交じるもので、”粕毛”とも書きます。
現代で最もポピュラーな馬であるサラブレッドにはあまり現れず、北海道和種やフランスのブルトン種、ベルギーのブルジャン種など、地域固有の馬に比較的多く出る傾向があります。
なお、彼らがどのような基準で馬を選んだのか、その経過については書かれていません。
お布施に用いるからには、毛並みや体格の良い馬だったことは間違いないでしょう。
これほどいろいろな毛色を持った馬が揃ったのですから、さぞかし壮観だったはずです。
奥州藤原氏討伐の報告書
それから2ヶ月後の7月19日には、奥州藤原氏討伐に出発する頼朝に付き従い、二階堂行政も奥州へ向かいました。
行政は武働きをデキる人ではありませんから、戦の記録を取ったり、戦後の統治などについて何か相談するために連れて行ったのだと思われます。
実際、行政は奥州合戦の経過についての報告書を作成。
同年9月8日に、この報告書を持った使者が京都へ出立した、ということも書かれています。
こうして奥州合戦自体は終わりましたが、そこから派生して翌年に一騒動起きました。
文治六年(1190年)1月7日のことです。
奥州合戦で降伏した二藤次忠季(にとうじただすえ)が、頼朝の命を受けて奥州へ向かっていました。
しかし途中で兄・大河兼任(おおかわかねとう)が謀反を起こしたという噂を聞いて、自身が関与していないことを示すため一度鎌倉へ戻っています。
頼朝はこれに感心し「もう一度奥州へ向かい、兼任を討て」と命じました。
また、忠季のもう一人の兄・新田三郎入道も兼任の謀反に異議があり、鎌倉へやってきています。
こうして大河兼任を討つことになり、軍兵招集のための書状を二階堂行政と平盛時が作成。
相模より西の御家人たちに発行され、続々と兵が集まってくることになります。
今日【大河兼任の乱】と呼ばれている事件で、兼任は前年から源義高(木曽義高)を装って鎌倉を撹乱し、主人である藤原泰衡の敵討ちを試みていたのだとか。
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鎌倉軍は千葉常胤が東海道、比企能員が東山道の人々を率いて北上し、二ヶ月以上かけて乱を収めたといいます。
永福寺が“二階建て”に見えたから……
源義経や藤原泰衡など。
奥州合戦に関連して命を落とした人々の霊を慰めるため、頼朝は永福寺の建立を発願しました。
そこでも二階堂行政が三善善信・藤原俊兼とともに造営奉行に任じられています。
工事は順調に進み、建久三年(1192年)11月25日には落慶供養を実施。
このお寺は二階建てのように見えたため、いつしか”二階堂”というあだ名がつけられ……ようやく名字の由来が出てきましたね。
行政の屋敷が、この永福寺の近辺にあったため、子孫が二階堂氏を名乗るようになったのです。
残念ながら永福寺は、応永12年(1405年)の火災で燃えてしまい、それをきっかけに廃絶したため、今日ではその面影を偲ぶことも難しくなっています。
鎌倉の寺院はこういった例が多いですね……。
話を少し戻しまして。
建久元年(1190年)秋、頼朝が上洛することになったため、行政をはじめとして、鎌倉の人々は忙しく準備を始めます。
まず9月15日、道中の諸々に関する担当者を決められました。
二階堂行政は頼朝の右筆(ゆうひつ・手紙を書く人)である一品房昌寛(いっぴんぼうしょうかん)と共に、院への進物を担当。
同月21日には、上洛している間の鎌倉警備について割当が決まり、行政が指導を務めました。
そこから出発~入京までは行政に関する記述が一旦なくなり、12月4日に
「頼朝から京都の多くの寺社へ絹が寄付され、その実務を二階堂行政と中原親能、一品房昌寛が務めた」
と記されています。
中原親能(ちかよし)は大江広元の兄で、行政と同じく文官として頼朝に仕えていた人ですね。
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