島津久光

島津久光/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年

大河ドラマ『西郷どん』では“西郷生涯の敵”と称され、『青天を衝け』では慶喜に小馬鹿にされていたキャラクター。

明治20年(1887年)12月6日は、その島津久光が亡くなった日です。

薩摩藩の12代藩主・島津斉彬(なりあきら)の異母弟となります。

斉彬は、西郷あこがれの名君です。

その弟である久光が、なぜ西郷の敵となるのか? 史実はどうなっているのか……。

大河に限らず、幕末作品をご覧になっていて、そんな疑問を抱いた方もおられるかもしれません。

本稿では、フィクションの要素を削ぎ落とし、できるだけ偏りのない視点から島津久光の一生にアプローチしてみたいと思います。

彼は西郷の敵なのか?

あるいは名君では?

島津久光の生涯を振り返ってみましょう。

 


島津久光の略歴

まずは簡単な経歴から。

久光の父は島津斉興(なりおき)で、母は側室の由羅(ゆら)。

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最初に断っておきますと、兄の斉彬は藩主になっておりますが、久光自身はその座には就いてはおりません。

されど幕末の薩摩藩における久光の存在は、決して小さくない……というか、かなり大きい。でも、藩主ではない。

そこがどうにもシックリ来ない方もおられますので、まずは幕末薩摩の藩主をチャートで確認しておきましょう。

【幕末薩摩藩の系図】

父・島津斉興 第10代藩主

兄・島津斉彬 第11代藩主

弟・島津久光 藩主ならず

子・島津忠義 第12代藩主(久光の息子)

※◯代は薩摩藩になってからの藩主で表記(島津氏当主として数えると斉興→27代、斉彬→28代、忠義→29代となります)

父・斉興と兄・斉彬の次に家督を継いだのは、弟・久光の実子である忠義でした。

斉彬が跡継ぎのいないまま亡くなったため、忠義がいったん斉彬の養子となってから、藩主の座を継いだのです。

しかし彼はまだ若く、政治的実権を握ったのが久光でした。ゆえに薩摩では「国父(父のように尊敬される人)」として多くの藩士から愛されてもおりました。

大河ドラマでは、“単純な悪役”に描かれてしまうおそれもありますが、初めに断っておきますと、決して無能な人ではありません。

一方、“生涯の敵”とされてしまった西郷隆盛との相性が悪かったのも否定しきれぬところ。

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久光は、西郷のことを「安禄山」と呼んでいました。

安禄山とは、唐を裏切って国を衰退させた奸臣であり、巨漢として知られていた人物のことで、中国四大美人の一人・楊貴妃とセットで語られたりします。

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久光が西郷をそんな悪臣に喩えたりしたのにもちゃんと理由はあるんですが……一体、二人の間には何があったのか。

ここから先、本編では久光の生涯を通じ、その関係も合わせて見ていきたいと思います。

島津久光/wikipediaより引用

 


生母は由羅

文化14年(1817年)10月24日、島津久光(本稿ではこの名で統一)が誕生しました。

幼名は普之進(かねのしん)。

乳幼児の夭折が珍しくない時代でしたが、幼い久光は健康で、賢く、心優しい少年に育ちました。

異母兄・島津斉彬との関係は決して悪くはありません。ただし、兄弟で異なる点もありました。

兄・斉彬が蘭学好みであったのに対し、弟・久光は国学や儒教を重視する傾向がありました。

そんな兄弟が、それぞれの派閥の藩士たちに担がれて対立したのが、お由羅騒動です。

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詳細は上記の記事に譲り、ここでは彼女の性格や要点だけを説明させていただきますと……。

まず、ドラマやフィクションでは毒々しい悪女として描かれがちな由羅ですが、当時の彼女を知る人の証言では「上品な女性」、あるいは「美しく賢さを兼ね備えた女性」であったという評価です。

考えてみれば、そのほうが自然かと思います。

身分の低い町娘から、薩摩藩主・島津斉興の側室になった彼女。シンデレラストーリーを歩んだ女性というのは、とにかく悪く言われがちなものです。

徳川綱吉の生母・桂昌院あたりもそうですね。

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しかし、史実においては一歩引いて考える必要がありそうです。

お由羅騒動のキッカケともなった、彼女の「呪詛」の件。一言で言えば「呪い」ですね。

当時、島津斉彬の子どもたちが次々に亡くなるのですが、これが由羅の呪いのせいだと斉彬派の間では語られるようになりました。

そこから「由羅を殺す!」という物騒なところまで発展して、結果的に「お由羅騒動」というお家騒動になってしまうのです。

跡継ぎ候補の「斉彬派vs久光派」ということで、薩摩藩が真っ二つに割れてしまいました。

結果、由羅は殺されること無く、逆に、50名ほどの斉彬派藩士が処罰の対象になり、西郷の上司・赤山靱負(沢村一樹さん)にいたっては切腹という事態にまで陥ってしまいます。

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そこで、由羅が行ったという「呪詛」ですが……。

実は、外国の脅威を彼女なりに退けたいと考え、祈祷したものが勝手に誤解されたとも言われておりまして。

斉彬も、我が子が次々と亡くなるため、その苛立ちを由羅にぶつけたところがありました。

つまりは八つ当たりに近く、視点を変えれば、彼女自身が名誉毀損の被害者じゃないの? とも考えられるワケです。

 


兄・斉彬との兄弟仲

事件のあらましだけ聞くと、なんともやりきれない流れ。

当の斉彬・久光兄弟は、跡継ぎのことをどう考えていたのか?

というと、久光は兄にかわって藩主になろうとはまったく考えていませんでした。むしろ、担ぎ上げられて困惑していたようです。

しかし、この騒動で西郷や大久保たちの印象が悪くなったのは否めないところで、不運だったとしか言いようがありません。

ともかく、このお由羅騒動の結果を受け、嘉永4年(1851年)、兄弟の父・島津斉興は斉彬に家督を譲ることとなりました。

ここで斉興が久光に宛てた書状から、斉興の見た斉彬の性格について記しておきます。

・性格は猜疑心が強い

・肝っ玉が小さく、度胸がない

・世間の流行ばかり追いかけて、無用の物好きである

・藩士と気持ちが合わない、不安だ

どうにもフィクションで描かれるような、豪快で英邁な斉彬像とは違うようです。

ただ、言われてみれば、斉彬の子の死を由羅の呪詛と決めつけたところからして、猜疑心というのは否定はできなさそうです。

「世間の流行ばかり追いかけて、無用の物好き」というのは、蘭癖のことでしょう。

こればかりは考え方の違いで言いがかりのような気もします。

【先進的で西洋に目を向けていた長所】

と見なすこともできれば、

【役に立つかわからないことに金をつぎ込む短所】

と捉えることもできるからです。

一方、藩主となった斉彬は、弟の久光を信頼していました。

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斉彬は欧米列強についても心配して備えていましたが、それ以上に警戒していたことがあります。

内戦です。

清で起こった太平天国の乱が、国そのものを弱体化させ、結果的に外国からの侵略をゆるしてしまった――斉彬はそう考えておりました。

幕府の政治があやまった方向に向かい、結果として内乱が起こることこそ危険だと考えていたわけですね。

斉彬は、久光にこのことを伝えており、久光も深く理解していました。

2人の間の書状からは、互いの信頼感を前提に書かれていることが見受けられ、兄弟仲が決して悪くないと判断できそうです。

 

久光と「精忠組」

安政5年(1858年)7月16日、斉彬は世を去りました。

後継者として藩主となったのは、久光の長男・忠義(本稿はこの名で統一)です。

島津忠義/Wikipediaより引用

まだ若い忠義にかわって、実権は久光が握ることとになりました。

このころ中央の政界では、幕府の大老・井伊直弼による「安政の大獄」が猛威を振るっておりました。

おさらいをしておきますと、「安政の大獄」とは、倒幕派の弾圧そのものを目的としたものではありません。

背後にあるのは、次期将軍を誰にするかという問題。この政治闘争において、薩摩藩の支持していた一橋派が敗北し、かくして薩摩藩関係者も処分されたのです。

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これに怒り、暴走気味になったのが若手藩士たちでした。

薩摩藩士はコントロールの利かない暴走を見せるようになり始めます。

これは何も薩摩だけのことではなく、水戸藩や長州藩も同じでして。どの藩でも頭を悩ませておりました。

激発しかねない薩摩・若手藩士たちの一団「精忠組」は、大久保利通(本稿はこの名で統一)らに率いられていました。

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彼らは、脱藩して京都に向かい、所司代を打倒しようという計画を推し進めようとします。

この危険な計画が、藩主父子の耳に入り、忠義はそこでこう約束しました。

1. いざという時は、藩主を中心として藩全体で行動する

2. 斉彬様の遺志を守り、日本を天皇中心とした国にするべく力を尽くす

3. だからそうなった時は、藩主を支えて頑張ってくれ

要するに、藩全体で行動するから、単独行動で暴発するような真似はやめろ、ということ。まだ若い忠義一人で考えたわけではなく、実質的には背後にいた久光の考えです。

のちに久光は、大久保利通と面会しました。

お由羅騒動で痛い目を見ている大久保は、そのお由羅の子である久光に対して先入観がありました。

が、この面会でそうしたわだかまりは氷解します。「精忠組」と久光の間には深い信頼関係が築かれたのです。

久光は慎重であり、賢明な判断を下していました。

のちに彼と対立する西郷ですら、久光のことを「周公旦」(古代中国の名君)と呼び、褒め称えているほど。

そして安政7年(1860年)3月3日。

桜田門外の変」が発生し、大老・井伊直弼が殺害されます。

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大久保はこれを機に出兵したいと久光に提案しました。

が、久光は時期尚早と退けるとともに、深い疑念を抱いておりました。

「事件に関わった有村兄弟(有村雄助・有村次左衛門)は……とんでもない不忠不孝である。よもや関わってはおるまいな? このことに関して、私はひどく怒っているのだが」

こう言われて、大久保は焦り、弁解するほかありません。

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久光は、有村兄弟の行動に苦り切っていました。

その一方で、もしも一橋派が武力で立ち上がるのであれば協力する気もあります。必ずしも大久保の提案に反対するわけではありません。

兄・斉彬と対立していた井伊直弼の死に関しては、むしろ当然と思う部分もありました。

問題は、タイミングです。

慎重に時期を待たずに暴発すれば危うい。この久光の危惧は、幕末に水戸藩が陥った危機を思い出せば、納得できるものです。

久光は軽挙妄動を慎み、あくまで勅命を得て行動するつもりでした。

決して愚鈍でも短絡的な人間でもなかったのです。

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