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島津久光/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集

島津久光71年の人生をスッキリ解説! 西郷隆盛、生涯の敵というのは本当か?

更新日:

西郷隆盛は、男からも女からも滅法モテた――。
2018年の大河ドラマ『西郷どん』は、そんなキャッチコピーで主人公が描かれる予定ですが、その中に一人、“西郷生涯の敵”と称される、なんとも物騒なキャラクターがおります。

島津久光――。
ドラマでは青木崇高さん演じる役どころであり、渡辺謙さん扮する島津斉彬(なりあきら)の異母弟となります。

斉彬は、西郷あこがれの名君です。その弟である久光が、なぜ西郷の敵となるのか?
史実はどうなっているのか……。

と、疑問を抱く方もおられるかもしれません。

そこで本稿では、フィクションの要素を削ぎ落とし、偏りのない視点から島津久光の一生をアプローチしてみたいと思います。

西郷生涯の敵って、一体何があったのか?

 

久光の略歴

まずは簡単な経歴から。

久光の父は島津斉興(なりおき・鹿賀丈史さん)で、母は側室の由羅(小柳ルミ子さん)。

島津斉興/Wikipediaより引用

最初に断っておきますと、兄の斉彬は藩主になっておりますが、久光自身はその座には就いてはおりません。

されど幕末の薩摩藩における久光の存在は、決して小さくない……というか、かなり大きい。
でも、藩主ではない。

そこがどうにもシックリ来ない方もおられますので、まずは幕末薩摩の藩主をチャートで確認しておきますと。

【幕末薩摩藩の系図】
父・島津斉興 第10代藩主(鹿賀丈史さん)

兄・島津斉彬 第11代藩主(渡辺謙さん)

弟・島津久光 藩主ならず(青木崇高さん)

子・島津忠義 第12代藩主(久光の息子)

※薩摩藩になってからの藩主で表記(島津氏当主として数えますと斉興→27代、斉彬→28代、忠義→29代となります。

父・斉興と兄・斉彬の次に家督を継いだのは、弟・久光の実子である忠義でした。
斉彬が跡継ぎのいないまま亡くなったため、忠義がいったん斉彬の養子となってから、藩主の座を継いだのです。

しかし彼はまだ若く、政治的実権を握ったのが久光でした。
ゆえに薩摩では「国父(父のように尊敬される人)」として多くの藩士から愛されてもおりました。

大河ドラマでは、“単純な悪役”に描かれてしまうおそれもありますが、初めに断っておきますと、決して無能な人ではないのです。

一方、“生涯の敵”とされてしまった西郷との相性が悪かったのも否定しきれぬところでして。

久光は、西郷のことを「安禄山」と呼んでいました。

安禄山とは、唐を裏切って国を衰退させた奸臣であり、巨漢として知られていた人物。
中国四大美人の一人・楊貴妃とセットで語られたりします。

安禄山と楊貴妃の赤ちゃんごっこが「安史の乱」に繋がる!? そして数千万人が死す

久光が西郷をそんな悪臣に喩えたりしたのにもちゃんと理由はありまして。

一体、2人の間には何があったのか。
ここから先、本編では久光の生涯を通じ、その関係も合わせて見ていきたいと思います。

 

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生母は由羅

文化14年(1817年)10月24日、島津久光(本稿ではこの名で統一)が誕生しました。

幼名は普之進(かねのしん)。
乳幼児の夭折が珍しくない時代でしたが、幼い久光は健康で、賢く、心優しい少年に育ちました。

異母兄・島津斉彬との関係は決して悪くはありません。
ただし、兄弟で異なる点もありました。

兄・斉彬が蘭学好みであったのに対し、弟・久光は国学や儒教を重視する傾向がありました。

そんな兄弟が、それぞれの派閥の藩士たちに担がれて対立したのが、お由羅騒動です。

詳細は上記バナー記事に譲り、ここでは彼女の性格や要点だけを説明させていただきますと……。

まず、ドラマやフィクションでは毒々しい悪女として描かれがちな由羅ですが、当時の彼女を知る人の証言では「上品な女性」、あるいは「美しく賢さを兼ね備えた女性」であったという評価です。

考えてみれば、そのほうが自然かと思います。

身分の低い町娘から、薩摩藩主・島津斉興の側室になった彼女。シンデレラストーリーを歩んだ女性というのは、とにかく悪く言われがちなものです。
徳川綱吉の生母・桂昌院あたりもそうですね。

しかし、史実においては一歩引いて考える必要がありそうです。

お由羅騒動のキッカケともなった、彼女の「呪詛」の件。
呪詛とは、一言で言えば「呪い」ですね。

当時、島津斉彬の子どもたちが次々に亡くなるのですが、これが由羅の呪いのせいだと斉彬派の間では語られるようになりました。
そこから「由羅を殺す!」という物騒なところまで発展して、結果的に「お由羅騒動」というお家騒動になってしまうのです。

跡継ぎ候補の「斉彬派vs久光派」ということで、薩摩藩が真っ二つに割れてしまいました。

結果、由羅は殺されること無く、逆に、50名ほどの斉彬派藩士が処罰の対象になり、西郷の上司・赤山靱負(沢村一樹さん)にいたっては切腹という事態にまで陥ってしまいます。

そこで、由羅が行ったという「呪詛」ですが……。

実は、外国の脅威を彼女なりに退けたいと考え、祈祷したものが勝手に誤解されたとも言われておりまして。
斉彬も、我が子が次々と亡くなるため、その苛立ちを由羅にぶつけたところがありました。

つまりは八つ当たりに近く、視点を変えれば、彼女自身が名誉毀損の被害者じゃないの? とも考えられるワケです。

 

兄・斉彬との兄弟仲

事件のあらましだけ聞くと、なんともやりきれない流れ。
当の斉彬・久光兄弟は、跡継ぎのことをどう考えていたのか?

というと、久光は兄にかわって藩主になろうとはまったく考えていませんでした。
むしろ、担ぎ上げられて困惑していたようです。

しかし、この騒動で西郷や大久保たちの印象が悪くなったのは否めないところで、不運だったとしか言いようがありません。

ともかく、このお由羅騒動の結果を受け、嘉永4年(1851年)、兄弟の父・島津斉興は斉彬に家督を譲ることとなりました。

ここで斉興が久光に宛てた書状から、斉興の見た斉彬の性格について記しておきます。

・性格は猜疑心が強い
・肝っ玉が小さく、度胸がない
・世間の流行ばかり追いかけて、無用の物好きである
・藩士と気持ちが合わない、不安だ

どうにもフィクションで描かれるような、豪快で英邁な斉彬像とは違うようです。
ただ、言われてみれば、斉彬の子の死を由羅の呪詛と決めつけたところからして、猜疑心というのは否定はできなさそうです。

「世間の流行ばかり追いかけて、無用の物好き」というのは、蘭癖のことでしょう。
こればかりは考え方の違いで言いがかりのような気もします。

・先進的で西洋に目を向けていた長所
と見なすこともできれば、
・役に立つかわからないことに金をつぎ込む短所
と捉えることもできるからです。

一方、藩主となった斉彬は、弟の久光を信頼していました。

島津斉彬像

斉彬は欧米列強についても心配して備えていましたが、それ以上に警戒していたことがあります。

内戦です。

清で起こった太平天国の乱が、国そのものを弱体化させ、結果的に外国からの侵略をゆるしてしまった――斉彬はそう考えておりました。
幕府の政治があやまった方向に向かい、結果として内乱が起こることこそ危険だと考えていたわけですね。

斉彬は、久光にこのことを伝えており、久光も深く理解していました。
2人の間の書状からは、互いの信頼感を前提に書かれていることが見受けられ、兄弟仲が決して悪くないと判断できそうです。

 

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久光と「精忠組」

安政5年(1858年)7月16日、斉彬は世を去りました。

後継者として藩主となったのは、久光の長男・忠義(本稿はこの名で統一)です。
まだ若い忠義にかわって、実権は久光が握ることとになりました。

島津忠義/Wikipediaより引用

このころ中央の政界では、幕府の大老・井伊直弼による「安政の大獄」が猛威を振るっておりました。

おさらいをしておきますと、「安政の大獄」とは、倒幕派の弾圧そのものを目的としたものではありません。
背後にあるのは、次期将軍を誰にするかという問題。
この政治闘争において、薩摩藩の支持していた一橋派が敗北し、かくして薩摩藩関係者も処分されたのです。

これに怒り、暴走気味になったのが若手藩士たちでした。
薩摩藩士はコントロールの利かない暴走を見せるようになり始めます。

これは何も薩摩だけのことではなく、水戸藩や長州藩も同じでして。どの藩でも頭を悩ませておりました。

激発しかねない薩摩・若手藩士たちの一団「精忠組」は、大久保利通(本稿はこの名で統一)らに率いられていました。
彼らは、脱藩して京都に向かい、所司代を打倒しようという計画を推し進めようとします。

この危険な計画が、藩主父子の耳に入り、忠義はそこでこう約束しました。

1. いざという時は、藩主を中心として藩全体で行動する
2. 斉彬様の遺志を守り、日本を天皇中心とした国にするべく力を尽くす
3. だからそうなった時は、藩主を支えて頑張ってくれ

要するに、藩全体で行動するから、単独行動で暴発するような真似はやめろ、ということです。
まだ若い忠義一人で考えたわけではなく、実質的には背後にいた久光の考えです。

のちに久光は、大久保利通と面会しました。

お由羅騒動で痛い目を見ている大久保は、そのお由羅の子である久光に対して先入観がありました。
が、この面会でそうしたわだかまりは氷解します。
「精忠組」と久光の間には深い信頼関係が築かれたのです。

久光は慎重であり、賢明な判断を下していました。
のちに彼と対立する西郷ですら、久光のことを「周公旦」(古代中国の名君)と呼び、褒め称えているほど。

そして安政7年(1860年)3月3日。
桜田門外の変」が発生し、大老・井伊直弼が殺害されます。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用

大久保はこれを機に出兵したいと久光に提案しました。
が、久光は時期尚早と退けるとともに、深い疑念を抱いておりました。

「事件に関わった有村兄弟(有村雄助・有村次左衛門)は……とんでもない不忠不孝である。よもや関わってはおるまいな? このことに関して、私はひどく怒っているのだが」
こう言われて、大久保は焦り、弁解するほかありません。

久光は、有村兄弟の行動に苦り切っていました。
その一方で、もしも一橋派が武力で立ち上がるのであれば協力する気もあります。必ずしも大久保の提案に反対するわけではありません。
兄・斉彬と対立していた井伊直弼の死に関しては、むしろ当然と思う部分もありました。

問題は、タイミングです。

慎重に時期を待たずに暴発すれば危うい。
この久光の危惧は、幕末に水戸藩が陥った危機を思い出せば、納得できるものです。

久光は軽挙妄動を慎み、あくまで勅命を得て行動するつもりでした。
決して愚鈍でも短絡的な人間でもなかったのです。

 

久光、東へ

桜田門外の変で、幕府の権威は失墜しました。

次に権力を握るのは、誰なのか。熾烈なパワーゲームが始まります。

久光はこのころ、兵乱が起こることを待っておりました。
しかし、どうにもその気配はありません。

時局が動かないのであれば、こちらから動く――。
時機到来を待ち受けていた久光が目を付けたのが、将軍・徳川家茂と皇女・和宮の婚礼による「公武合体」です。

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1. 和宮が東に向かうとなれば、その御身が将軍家の意向のままとなってしまう
2. ここで改めて「皇国復古」を成し遂げたい。とはいえ、「安政の大獄」のようなことになっても困るから、牽制しなければなるまい。今こそ大久保ら精忠組との約束を守り、出兵する時が来たのだ
3. そのためには、滞在して京都守護をする詔勅を求めたい
4. そのうえで、朝廷から勅使を江戸に派遣し、改革を行う

久光の計画は、慎重かつ冷静なものでした。

藩全体が暴発した水戸藩。
過激派が暴走気味で、御所を襲撃するに至った長州藩。
京都守護職として、孝明天皇の信頼を背後に勢力を伸ばすものの、没落した会津藩。

そうした藩と比較すると、薩摩藩は混乱を極める政局の中、浮沈もなく常に一歩リードしていました。

そうした手柄は、大久保や西郷のものとされてきました。
しかし、久光の判断も的確であったことが過小評価されているのではないでしょうか。

 

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「アナタ、ぶっちゃけ“田舎者”っすわ」

京都に乗り込み、政局をリードする――。
そう決意を固めた久光に水を差す人物が現れました。

西郷隆盛(本稿はこの名で統一)です。

月照と心中未遂したあと、奄美大島に流されていた西郷。
島から戻って久光と和解する流れになっていたのですが、西郷はなんと、こう言い放ったというのです。

「御前には恐れながら“地ゴロ”」
(殿様だから言いにくいけど、アナタ、ぶっちゃけ“田舎者”っすわ)

久光はショックを受けました。

藩主の父であり、幼い頃から英邁とされてきて、大久保ら藩士との意思疎通もうまくいっていた。
それが下級藩士の西郷にここまで言われたのですから、はらわたが煮えくり返ったことでしょう。

西郷にすれば、久光の器が小さいとかそんなことよりも、名目上は藩主ではなく、その父に過ぎず、無位無冠ではないか――そういう思いもあったのでしょう。

一般的なイメージでは、思い切って改革を断行する西郷と、保守的でその邪魔をする久光という像があります。
ただし、この上洛に関しては逆です。
官位という既成の概念を無視して挑戦しようと意欲みなぎる久光と、しきたりがあるから出来るわけがないと消極的な西郷という対立構造だったと考える方が自然です。

これには大久保も困り果てました。
西郷は脚が痛いと温泉に引きこもって、前線からの引退すら臭わせてしまうのです。
それでもなんとか西郷を説得し、京都に先発させました。

しかしこのとき、西郷は暴走してしまいます。
下関で待機せよ、という命令を無視して大坂に向かってしまったのです。

田舎者呼ばわりされた耐えてきた久光も、さすがにこの勝手な行動は許せぬと大激怒。
大久保が間に入ろうとしますが、彼との面会すら拒み、結局、これがキッカケで、西郷は徳之島・沖永良部島遠流とされてしまいます。

果たして悪いのは久光だったのでしょうか?
これにはそう単純に言い切れぬ深い理由があったと推察します。

西郷はそもそも、幕府から見れば死んだはずの人間でした。
一度目の遠流の際に処刑されてもおかしくないところを、命を助けて政界にまで連れ戻し、重用したわけです。
公式には死んだ存在ですから、できるだけ目立たないよう行動を取って欲しいというのが、久光側の本音です。

そもそも実質的に藩主といえる久光を軽視し、命令まで無視するというのは、忠誠心という面でも問題ありと思われます。

でもなぜこの二人は、こうも不仲なのか?

久光の器が斉彬より小さかったとか、斉彬を崇拝していた西郷からすると物足りないとか、後世においても色々と言われています。
その多くが久光側の問題とされています。

しかし、本当にそれだけなのでしょうか。

西郷の態度にも問題がありましょう。
幕末武士の、主君に対する態度として、さすがに問題があると言わざるを得ません。

西郷が誰からも好かれる人柄というのはあくまで創作物のイメージであり、実際には敵も多かったとされています。
自分と合わない性格の人間には、冷たい態度であり、恨みを忘れない執念深さもありました。

斉彬の存在は、その西郷の性格的な欠点を際立たせているのではないでしょうか。
一般的に「英雄・西郷が正しい」という視点にされてしまうため、反対に久光の人物像が悪く描かれがちになります。

更には両者とも、自分こそが斉彬の遺志を継ぐ者だと自負していたことも、対立の原因かもしれません。
いわゆる「同族嫌悪」という感情ですね。

 

久光、上洛す

文久2年(1862年)、春。
武装した島津久光が、兵を率いて京都に向かう――。

この一報は、幕末の政局にショックを与えました。
西郷は成功する見込みもないと冷淡でしたが、そんなことことはありません。

むしろ、藩主本人ではなく、藩主の父という立場でありながら、これほどまでのことをするということに、世間は驚きました。
無位無冠だろうと、完全武装の物々しい一団です。
無下にあしらうこともできるわけがない。

斉彬の遺志を継ぎ、武力をちらつかせながら皇国の発展を目指し、幕府に圧力をかけようとする久光。
政局を動かす力が実際にはありました。

京都において、久光は暴発気味の過激派尊皇攘夷藩士を処断しました(「寺田屋騒動」)。
自らの藩士たちを斬って騒動を治めるという流血沙汰を起こしながら、久光はかえって評価をあげました。

家臣であろうと、不穏な暴走をする藩士は、断固たる処断。
不穏な動きが高まる京都において、その果断ぶりが賞賛されたのです。

さらにこの犠牲は、久光の覚悟をも強めました。
流血すら強いられたのであるから、もはや引っ込みがつきません。
断固として勅命を得て、幕政を改革せねばならない。そう決意を固めました。

 

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久光、江戸へ

久光の運動が実り、幕府への勅使派遣が決まりました。

このとき、勅使が幕府につきつけた要求は、以下の三条件です。

1. 将軍・徳川家茂が諸大名を率いて上洛し、朝廷で朝政を行う
2. 沿海5大藩主(薩摩藩島津家・長州藩毛利家・土佐藩山内家・仙台藩伊達家・加賀藩前田家)を五大老として幕政に参加させる
3. 一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽(慶永)を大老職として就任させる

当時の久光は、慶喜とも春嶽とも面識はありませんが、亡き斉彬が両者と親しくしていました。
そのことから推薦したのでしょう。

このとき、久光が薩摩藩主になりたいと運動をした、官位を欲しがった、とも言われています。
これは周囲が勝手にやったことで、久光は特に希望していなかったようです。
うちの殿様にも肩書きがあった方が動きやすいだろうという「忖度」なのでしょうが、久光としてはありがた迷惑なこと。

久光はそういうことにこだわらないタイプでした。

久光が江戸に入る前、薩摩藩邸が焼失していました。江戸に入る理由のひとつとして、藩邸再建監督という名目もあったのです。
しかし、実は薩摩藩士が焼いていたと、幕府にバレました。いわゆる自作自演ですね。

「江戸に来る理由のために、わざと藩邸を焼くとは……」
幕府は呆れ、久光への心証が最悪になってしまいます。

さらにこの江戸行きで、思わぬ事件が起こります。
生麦村で、イギリス人が行列を乱したため、殺害された――いわゆる生麦事件です。

生麦事件~そしてイギリス人奥さんは丸坊主にされ、薩英戦争から友情が生まれる

久光は、帰路、京都に立ち寄りました。

そこは以前とはうって変わり、ますます騒然とした場所に変わっていました。
諸藩のパワーゲームの場と化し騒乱の中心として荒れまくっていたのです。

ここで久光は公武合体運動を行いますが、孝明天皇や諸侯と意見が折り合わず、挫折を味わうことになります。
仕方なく、いったん帰国することとなりました。

西郷は無謀な暴挙とあきれて諫めた、久光の計画。
むろん西郷が間違っていたとは言えません。無位無冠の藩主でもない人物が、政局を動かすとは考えられないことでした。

しかし、久光はやってのけたのです。彼の度胸が成功をおさめました。

 

薩英戦争

久光の度胸が成功をおさめたといえる東行。
このとき起こった事件が、薩摩に危機をもたらします。

生麦村でのイギリス人殺傷事件が、その原因でした。

この事件はいろいろ言われていて、当のイギリス人側も、
「ローマではローマ人のするようにせよ(郷に入り手は郷に従えの英語版)、って言うでしょ。礼儀のなってない軽率な奴ばっかりで困るよ」
と呆れていた面もありました。

が、それはそれ、これはこれとして、今も昔も「自国民の保護」や「自国民殺傷に対する賠償請求」は政治介入の常套手段です。

実のところ、薩摩藩はかなり冷静な目線も有していました。
斉彬の時点で武力衝突すれば勝ち目はないと理解していたのです。
このあたりは猪突猛進の長州藩とは違います。

そうはいっても、ここまで攘夷熱が高まる中、あっさりと降伏するわけにもいきません。
イギリス側も「賠償金をもらい、犯人さえ確保できればいい」と割り切っている側面もあります。

ここに両者の誤解がありました。
薩摩側は「最高責任者として藩主父子の首すら要求している」と考えました。
しかし、イギリス側はあくまで実行犯さえ確保できればそれでよかったのです。

文久3年(1863年)、幕府から賠償金を受け取ったイギリス側は、薩摩を目指しました。

英国と幕府、講話の様子/Wikipediaより引用

イギリス側にも、油断があったのでしょう。
いざ、イギリス艦隊vs薩摩砲台の戦闘が始まると、痛み分けのようなカタチで終わりました。

人的損害は、60名を超える死傷者を出し、将官クラスまで失ったイギリスの方が大きいのです。

とはいえ、薩摩側も市街地の10分の1を焼き払われるという、甚大な損害を受けました。

そこでイギリス側は、「日本を侮るべきではない」と認識を正し、薩摩側もこれだけ被害を受けたとなると、高らかだった攘夷の声も沈黙してしまうわけです。

かくしてこの戦争を経て薩摩とイギリスは接近し、薩摩は諸藩より一歩前進することになったのでした。
突発的に起きた生麦事件でしたが、終わりとしてはこれ以上ない成果、つまり結果オーライだったと言えましょう。

 

またも上洛、参与会議

薩英戦争の同年文久3年(1863年)、久光は再び上洛。
このころ京都では、過激な尊皇攘夷派が猛威をふるっておりました。

暗殺、テロ、脅迫が横行する無法地帯と化していたのです。

「ともかく異人を追い払うべきだ」という過激な尊皇攘夷思想とは距離を置いていた久光。
そんな彼にとって、京都で横行するテロは嘆かわしい、愚行の極みとしか思えません。

孝明天皇にしても、長州藩の工作を受けた三条実美らの公家が勝手な詔勅を出すことに困り果てていました。

そこで久光は、一度は鹿児島に戻るものの、京都に戻ると会津藩と手を組み、長州藩過激派の追い落としに成功(「八月十八日の政変」)。
激変する政局の中、リードを保ちます。

このあと、久光ら有力大名による合議制の「参与会議」が発足します。
ただし、主導権を取りたがる久光と慶喜の意見が異なることもあり、僅か数ヶ月で終了。
孝明天皇の信任篤い
徳川慶喜(禁裏御守衛総督、一橋徳川家当主)
松平容保(京都守護職・会津藩主)
・松平定敬(京都所司代・桑名藩主)
らが実権を握ることになります(「一会桑政権」)。

元治元年(1864年)久光は帰国し、内乱に備えた武備増強やイギリスへの留学生派遣に取り組み始めました。
入れ替わって京都に足を踏み入れたのは、西郷たちでした。

 

薩長の対立と和解

薩摩藩と長州藩の仲は、最悪でした。

元治元年(1864年)、追い詰められた長州藩過激派による「禁門の変(蛤御門の変)」が勃発。
薩摩藩と会津藩に蹴散らされた長州藩士は、「薩賊会奸」と書いて踏んづけて歩くほど恨みました。

蛤御門の変を描いた様子/Wikipediaより引用

長州藩としては、自分たちこそ攘夷のトップだと思っていたのに、薩英戦争以来薩摩の方がそういうポジションになったのも、気に入らなかったようです。
この程度なら「ハハッ、長州って恨みがましいね」で終わるんですけどね。

このあと、長州藩は過激な報復をやらかします。

薩英戦争後、薩摩藩はイギリスと密貿易を行っておりました。
南北戦争の影響で綿花不足に陥っていたイギリスは、日本産綿花を喜んで買い取ったわけです。

「薩摩め、攘夷をするふりをしておきながら、本当は英夷相手に貿易をしているとは! 化けの皮をひっぺがしてやる!」

長州藩はバレバレの嘘をついて、なんと綿を摘んだ薩摩の船を砲撃。
「すんません、外国船かと誤解して打ち払ってしまいました!」
そうシラを切ったのです。

この攻撃で薩摩藩士28名が死亡。
久光も、薩摩藩も激怒しました。

しかし、当の長州側は反省するどころか、
「逆賊薩摩三郎(久光のこと)、心を入れ替えないなら天誅を下す!」
という、殺害予告を大阪でバラ撒く始末です。

西郷は、自ら長州藩邸に赴いて調停しようと言い出します。
彼お得意の、
「捨て身で相手の元へ乗り込んで、もし自分が殺されたら倍返しする」
戦法をここでもやろうとしたのです。

が、これは止められて不発。
このころ西郷は勝海舟に出会い、その思想にすっかり感化されていました。

長州征伐でも西郷は、単身、敵地へ乗り込み、交渉をマトメてくるなどしております。

そして彼の行動は、久光の意向を無視した越権行為が増えてゆきます。

薩長同盟やその後の動きにどの程度久光が関与し、どう考えていたのかはあまりわかっておりません。
ただし、納得し満足していたらば、このあとの行動も変わってきたはずです。

後に薩摩藩が倒幕に舵を切ったことは、重大なことでした。
もし第二次長州征討に薩摩藩が参加していたら、長州の勝利はかなり疑わしいものだったでしょう。

薩摩藩は幕末の政局において、重要な役割を果たしていたのです。

 

倒幕へ

慶応3年(1867年)。3年ぶりに、久光は動きます。
彼にとって4回目の上洛を果たしたのです。

そこで久光は、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開くことになりました。

このとき、四侯が対峙したのは慶喜でした。
西郷は久光に、世間の同情が長州に集まっているからには、長州への寛大な処分を優先して求めるべきだと進言。
しかし、慶喜は兵庫開港問題を先決すべきだと主張し、両者の主張は決裂しました。

慶喜としては、ここで長州に手ぬるい処分をすれば、幕府の権威は丸つぶれになるとわかっているわけです。
話し合いによる革命への道は、これで閉ざされました。

斉彬に言われて以来、内乱だけは避けようと考えていた久光。しかし、もはや武力による革命は避けられない、そう思うほかありません。

久光は帰国し、出兵の準備を整えることにしました。
藩内には久光すら手を焼くほど出兵反対論が渦巻いていましたが、久光はこれを抑えつけます。

にわかに事態は動き出します。
久光が帰国して間もなく、10月14日には「討幕の密勅」が届くのです。
さらには慶喜が「大政奉還」を行い、久光にも上洛せよと朝廷から命じられるのでした。

最後の将軍となった徳川慶喜/wikipediaより引用

久光は病を得たと称して、子の忠義を派遣。
薩摩兵は戊辰戦争を戦うため、東へ、北へと向かうことになるのでした。

久光は徳川打倒を国元で喜び、そのために犠牲になった将兵を丁寧に弔いました。

 

鬱々たる明治の世

久光にとって、倒幕の成就は望みがかなったことでした。
斉彬の目指した道とは異なったかもしれませんが、それでも日本を変えることに成功したことは確かです。

しかし、久光は明治政府の方針には批判的でした。
久光と西郷は薩摩に引きこもり、出仕しようとはしませんでした。
勅使まで訪れても、病と称して頑として出仕を拒み続けたのです。

明治4年(1871年)、廃藩置県令が出されると、久光は猛然とこれに反対しました。

西郷は冷や汗をかきます。
全国諸藩の賛同も得られそうなのに、よりによって薩摩から強硬な反対論が出るというのはまずい。
このときはなんとしても久光を抑え込んだものの、彼の鬱憤は溜まるばかりでした。

久光をおとなしくさせるにはどうすべきか?
天皇の威光が効くであろう――と考えた西郷は、天皇の行幸を実現させます。

しかし、これが逆効果。
天皇に随行した元薩摩藩士が挨拶も来なかったということで、久光は西郷に怒りをぶつけます。
万事このような調子です。

久光は鬱憤をため、国元に残った西郷はそれを受け止めざるを得ない。
何とも不幸な君臣関係がそこにはありました。

明治10年(1877年)、久光が「安禄山」と罵った西郷も、西南戦争に散りました。
このときは戦火を避けて、久光も一時避難しています。

こうした久光の行動は、
「維新の意味を理解しない、頑迷で保守的な、バカ殿様の行動」
とみなされがちです。

しかし、そこは慎重に考えたほうが良さそうです。

久光のように不満を訴えた者が身分に関わらずいたことは、反乱が各地で起きたことからもわかります。
幕末、民衆は不満を抱いていました。
外国人殺傷事件の賠償金支払いのため、年貢は重くなるばかり。
倒幕派は、弱腰の幕府は外国の言いなりだけれども、自分たちならばそんなことにはしないと喧伝していたのです。

「幕府さえ潰れちまえば、西洋の言いなりじゃなくなるんだ」
そういう期待感を背景に、倒幕に参加した人もいたのです。

ところが、維新のあとは掌返しをされたわけです。
賠償金の支払いも、明治政府が引き継ぐことになりました。

それだけではありません。
新政府は開かれた政治どころか、閉鎖的な「藩閥政治」が行われました。

作家の司馬遼太郎は、西郷と大久保の出身地である加治屋町をさして、こう言いました。
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」

大久保利通/国立国会図書館蔵

これは一見素晴らしいことのように思えますが、私はそうは思いません。
国家の一大事を、同じ町内の人だけで回すというのは、なんと閉鎖的なことでしょう。

結果的に挫折したとはいえ、久光は大名による合議制政治を行うことに尽力してきました。
そんな久光にとって明治政府のやり方は、幕末の合議制よりも閉鎖的に見えたのかも知れません。

明治政府のやり方に不満を持つ者に担ぎ上げられた西郷が、戦場に散ったそ十年後の明治20年(1887年)。
久光は死去します。

享年71。
晩年は豊かな古典的な素養を生かして、歴史資料の編纂にあたり、静かな余生を送っていたとされます。

 

最も才略に富んだ政治家

久光に対して、かつての藩士や政府は腫れ物を触るようにして扱いました。
不満をなだめるためか、叙位・叙勲や授爵においては最高級で遇されました。

一方で、西郷・大久保贔屓の物語における彼の扱いは酷いものです。

維新後、久光が配下の者にこう言ったという話がまことしやかに伝えられています。
「俺はいつ将軍になるのだ」

幕末の政局において、将軍の権威と対峙し、それを骨抜きにしてきた久光が、こんなトンチンカンなことを言うものでしょうか。
これは後世の創作とされています。

明治維新を邪魔した男。
英邁な西郷や大久保を困らせた男。
兄・斉彬が賢兄ならば、久光は愚弟。
なぜそうした人物評が広まったのかを考えると、理由は簡単に想像がつきます。

久光側の言い分を分析すれば、西郷も大久保も、実質的藩主に対してあまりに不忠であることが明々白々となってしまうのです。

斉彬との美しい忠義が殊更にクローズアップされる一方、久光へのそうした態度は肩をすくめつつ、こう言われるのが大体のパターンです。

「久光は馬鹿殿だからね。忠義なんか尽くせないよ」
これぞまさに、ダブルスタンダードでしょう。
西郷や大久保の不義理を誤魔化すために、久光に損な役割を押しつけられているわけです。

しかし思い出してください。
水戸藩や長州藩は、暴走しました。
会津藩は政治的にゆきづまって滅びの道を歩みました。
他の多くの藩は、時代の転換点において右往左往しておりました。

そんな中で、薩摩藩は一丸となって、混迷の政局において常に主役級の座を保ち続け、最終的にも勝者となりました。

その政局において、先頭に立って睨みを利かせていたのは久光です。
西郷も大久保も、実際のところ久光にはそうそう逆らえなかったのです。

最後に、イギリス人が見た久光評を記しておきます。

「背丈は低く、顔立ちは鋭い。見るからにただ者ではない」
「武勇にあふれ、いかにも君主らしい。彼は日本でも最も才略に富んだ政治家だ」

島津久光/wikipediaより引用

文:小檜山青

【参考】
芳即正『島津久光と明治維新




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