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建安文学と後継者問題
ヘンリー王:
戦の物語は父から子へと語り継がれる
この日から、末世まで
クリスピアンの日が来れば必ずや
今日の武勲は語られ、我らは思い出されるであろう
『ヘンリー五世』第四幕第三場
ここで、決着しなければならない、重大深刻な問題もあるのです。
後継者選定です。
長男:曹丕(187ー226) バランス型。知勇兼備
二男:曹彰(190ー223) 勇猛で軍事の才能がある
三男:曹植(192ー232) きらめくような文才と、闊達な知性
人の才能を愛してやまない曹操は、我が子に対してもそうでした。
曹彰が烏丸討伐で功績をあげると、曹操はその黄色い髭をつまんでこう喜んだそうです。
「黄色い髭ちゃん、すごいことやったね!」
我が子のダメ出しもえげつないという傾向もみられますが、振り幅が激しいのでしょう。
曹植は、その文才ゆえに繊細でたよりないと思われがちではありますが、そう単純な話でもありません。
軍事的才能もあり、何より知性にあふれていました。残された言動からすると、性格的には曹操に近いと感じられます。
丁儀や楊修といった新進気鋭の家臣も、彼の支持に回っています。ただの文才だけの人物であれば、そもそもが後継者争いは起こらないのです。
曹操は、我が子かわいさだけによって曹植を選ぼうとしたのか?
曹操は、曹植に似たところがありすぎたのかもしれません。
自分自身の激情、振り幅の大きさが周囲を巻き込み、失敗し、取り返しのつかない失態を繰り返したことを、曹操は冷静になって思い出せたのかもしれません。
迷ったことは確か。それはわかります。
曹操は詩人でもあります。
曹操は、中国文学史において大きな足跡を残しているのです。
漢王朝まで正統派文学であった【賦】ではなく、民間歌謡である【楽府】に曹操は着目しました。
【賦】:読むことを前提としている
【楽府】:即興で歌うもの
曹操は、詠み人知らずの【楽府】に作者名を刻み、見てきた情景と心情をフィルムで切り取るようにして、詩に詠みこむことを始めたのです。
高いところに登れば詠む。寒い行軍の歩みを詠む。目にした死屍累々の惨状を詠む。
酒を飲んで詠む。大きな志を抱いて詠む。胸と腸が張り裂けそうな思いを詠む。
彼は【楽府】で思ったことをその場で即興として、文章を通して残したのです。
興奮状態がそこにはあったのでしょう。
曹操のその即興詩人ぶりは、後世蘇東坡『赤壁賦』で詠まれました。
横槊賦詩 槊を横たえて詩を賦す(武器を横において詩を詠む)
そんな人は、この前にも、後にも、なかなかいなかったんですよ。
だからわざわざ、その姿を詠まれたわけです。
曹操はともかく高い場所に登る等してハイテンションになると詩を作り、その場でバンド演奏させて歌っていたそうです。
若い頃から、ずっとそういうノリが大好きだったと。曹操は、自らの頭脳からこんこんと湧き出す詩で、世の中を変えたかったのです。
その文才は、二人の子・曹丕と曹植が引き継ぎました。
もしもどちらかに文才がなければ、曹彰でなければ、話はこじれなかったのでしょう。
曹丕は、性格が生真面目で、バランスも取れていて、端正な文才がありました。曹丕は、イヤリングの中から無難なものを選ぶ。そんな母・卞夫人の長所を引き継いだのでしょう。
父の考えも理解していました。
『典論』「論文」には、そのエッセンスが凝縮されています。
蓋文章経国之大業、不朽之盛事。 蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり(文学こそが国を治める偉大なる事業であり、決して朽ちることのない盛事なのだ)
曹丕も、詩人として名高いのです。
ただ、曹植はそれどころではありませんでした。
この父子の詩人としての評価は、南朝・鍾嶸編纂『詩品』(詩人ランキング、三段階評価)ですと、こうなります。
曹操:C 勢いとセンスはありますが、粗い。もうちょっと工夫があってもよいでしょう
→即興で詠んでいたこと、パイオニアであることを考えれば妥当でしょう。酔っ払って詠んだのかと突っ込みたくなるところも
曹丕:B 端正です。バランスが取れていますね。けれど、もうちょっと遊び心があってもいいかな?
→極めて真面目でバランス感覚がある。反面、確かに遊び心がない
曹植:A 最高、これ以上はありません!
→彼の作品には無限に広がる世界観があって、宝石箱のようにキラキラとしています!
夜空から星が落ちて、花になって咲いたような、琴の音色や風の香りをそのまま詩にしたような――あまりに繊細で、華麗で、豪快な文才の持ち主でした。
唐以前最大の詩人とは、この曹植なのです。
生まれながらにしてあったその文才を、人生で起きた苦しみが刃とヤスリとなって、さらに美しく磨き上げていったのでした。
文章こそが、世界を変える。
陳琳の名文で頭痛も吹っ飛ぶ。そう信じる曹操が、曹植の文才を見て、どれほど迷ったことか。
曹操は結局、妥協を選ぶしかありませんでした。
儒教を重んじる士大夫の体面も考えたのでしょうが、それだけとも思えません。
曹植のきらめく文才は、浮き沈みの激しい感受性と表裏一体でもありました。
「曹丕はバランスがとれている。後継者になれるのは彼だ。曹植は性格の振り幅が激しいからダメだな……」
孟徳さん、自分を客観視できていませんか?
自分の欠点を、我が子に見出していませんか?
彼自身、自分の激情がどれほど周囲を巻き込み、傷つけ、苦しめたのか、わからないわけでもない。
陳羣と司馬懿の信任を受け、曹丕は弟との争いを制して、後継者に指名されたのでした。
そしてここでもうひとつ、考えたいことがあります。
当時後継者争いを起こしたのが、曹操だけではないということ。
袁紹にせよ、孫権にせよ、劉表にせよ……複数才知ある男子がいれば起こっている事態なのです。
長男以外を後継者にすることそのものが、後世からすると異常事態、愚行、我が子可愛さに迷ったことのように思えます。
しかし、こうも重なるとなると、果たして当時は長子相続が当然であったのか、考えてみる必要があるのではありませんか?
乱世を乗り切るからには、生まれ順や生母といったう要素だけではなく、才能を吟味せねばならない。
儒教倫理が崩れる中で、そう判断したとしても、おかしくはない。
そしてこのことは、時代の先取りとも言えます。
暗君が続出し、根から腐っていたような明。
そのあとの清は、後継者選びにおいて、画期的なシステムを確立します。
【太子密建】です。
・皇帝は生前に後継者を決定しない。何度選びなおしてもよい
・勅書で封印した後継者は、紫禁城・乾清宮にある額の裏に置いておく
・崩御の後、立会いのもとで開封し公表する
後継者の資質を見定めながら、無用な後継者争いを発生させない。
画期的なシステムです。
その甲斐あってか、明と比較すると清は問題のない皇帝が多いものです。
このシステムにも問題がなかったとは言い切れませんが、世界史的に見ても素晴らしい選び方といえるでしょう。
それも、数多の失敗をふまえてのことではあります。
その中には、曹操・曹丕・曹植、そして卞夫人の涙。
彼ら側近と、この兄弟に愛された甄夫人の血が含まれていても、おかしくはないのです。
【鶏肋】がどこにあるのか?
マクベス夫人:
血の臭いがまだ残っている、
アラビアから取り寄せた香料を全て使おうとも
私の小さな手に染み付いた臭いは芳しくならない!
嗚呼、嗚呼、嗚呼!
『マクベス』第五幕第一場
曹操の最晩年には、彼らしからぬ過ちも見られます。
そのひとつが、建安19年(219年)に起こります。
【定軍山の戦い】です。
劉備配下の黄忠に夏侯淵が大敗を喫し、諸将を巻き添えにして戦死を遂げるのです。
総大将クラスまで討ち死にするということは、異常事態であり、悪い兆候です。
日本で言えば【長篠の戦い」がその一例でしょう。深刻な破綻の前兆とも言えます。
曹操らしからぬミスでした。
曹操は、戦術面でのミスは割とやらかしております。彼自身、若い頃から何度も負傷し、馬を失うことすらありました。
ただ、それも自ら撃って出る果敢あが裏目に出た面もあるのでしょう。
夏侯淵の敗戦は、もっと深い破綻がそこにはあります。
前述の通り、夏侯淵は味方からすら、親族だから起用されただけだと批判対象であったのです。
親族だから優遇し、敗北する。若き日の曹操が見たら、大笑いしそうなあやまちではありませんか。
賢いと日頃から言いながら、なんというザマだと。
漢中にとどまる自軍に、曹操はこう一言だけいうのです。
つぶやいたのか、それとも謎めいた司令として出したのか。状況ははっきりとはしません。
ただ、その一言は残っています。
「鶏肋、鶏肋……」
楊修はその意味を悟ります。
鶏肋とは鶏の肋のこと。捨てるのは惜しいものの、わざわざ食べるほどのものでもない。
漢中を捨てて撤退しろということだと。
これをもって撤退するわけですが、楊修はこの後処刑されています。曹植の側近であったことは考慮せねばならないのでしょう。
赤壁直前、曹操がそっけなく追い払い、禍根を残した張松の真価を見抜いていたのも、この楊修です。
またひとつ、謎がここにはあります。
曹操はなぜ怒り、楊修を死に追いやったのか?
【鶏肋】を勝手に解釈し、無断撤退をしたから?
あるいは【鶏肋】を解いた頭脳に嫉妬したから?
自分自身の苦い思いを察知できることが、怒りを招いたから?
それともこじつけ?
この地域の住民を強制移住させて、空っぽのどうでもいい場所にしていたから、くれてやってもいいって?
真相は、わかりません。
曹操は、後世の人間を混乱させる謎をいくつも残しています。
はっきりしていることがあるとすれば、漢中は【鶏肋】ではなかったということ。
天下統一を果たし、皇帝をめざしていたのであれば、中国全土どこにも捨てるところなど、なかったでしょうに。
孟徳さん、「鶏肋」とは、あなたの負け惜しみだったのではありませんか?
薤露行、消える朝露
事実、漢中は「鶏肋」ではなかったのです。
劉備が【大司馬】、【漢中王】と自称したのですから。
実のところ、劉備が本当に漢王朝の血を引いていたか、誰にもわかりません。
しかし、劉姓を名乗るからには、曹操よりはずっと信憑性があります。
荀彧が張良で、曹操が高祖劉邦――そう語り合った夢が、劉備によってまたひび割れてゆきます。
鄴ではこの年に魏諷主導の謀反が発覚し、またも数千人が誅伐にあうのでした。曹操はその足元すら、揺らいでいたのです。
曹操をすぐに滅ぼすほどの力はなくとも、漢王朝再興を夢見る人の拠り所にはなるのです。
そしてその願いが、力にもなる。
徐州はじめ、無用な血を流した曹操への反発も、劉備の推進力となり得ます。
建安24年(219年)、そうした力を得て進軍した関羽と、樊城を守る曹仁がぶつかり合いました。
この戦いは魏と蜀の争いに、呉も加勢する『三国志』らしい戦いとなります。
魏と呉の連携によって、関羽は敗死します。
このとき、孫権は曹操に臣従を誓っております。孫権は、曹操には天命があるとおだててくるのです。
曹操はその手紙を家臣に見せました。
「このクソガキ、俺を炎上ポジションに座らせて、ケツに火をつけるつもりらしいぞ」
孫権は皇帝になれと示している。その手には乗るか! といったところでしょう。
曹仁救援に向かっていた徐晃を、曹操は出迎えます。
このときの曹操を一目見ようと、兵士たちがざわめいています。
徐晃の隊列だけが整然としており、曹操はこう讃えました。
「素晴らしい統率だ。徐将軍こそ周亜父(前漢の名将)だね」
このころ、曹操の肉体は滅びつつありました。
持病の突き刺すような頭痛、歯痛、衰弱する肉体から、彼が終局を察知できないはずがないのです。
建安25年、曹操は洛陽で生涯を終えました。
享年66。
このとき、曹操は遺言を残しています。
「天下はまだ安定していない。葬式終了次第、喪服を脱いで一切の服喪禁止。兵士を指揮するものは部署離脱禁止。職務を遂行しろ。平服で埋葬して、金銀宝石類を入れないこと」
孟徳さん、最期の最期まで、合理主義者気質丸出しの業務連絡ですか……。
そしておそろしいことに、曹操の物語は命とともに終わらなかったのです。
やたらと長い本稿もまだしぶとく、続きます。
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