【黄巾の乱】そして董卓……乱世到来
ヘンリー王:
治世では寡黙と謙譲こそが
士大夫らしき言動とされる
されど乱世を告げる風の咆哮が耳に届いたとなれば
猛虎の如き言動をすべき時なのだ
『ヘンリー五世』第三幕第一場
中平元年(184年)、【黄巾の乱】勃発――。
『三国志』ファンならおなじみの、黄色い頭巾を巻いたものによる反乱です。
この反乱を、宗教反乱とみなしてしまうと、ちょっと誤解があるものです。
日本史の【島原の乱】でも同様の問題があります。
・宗教由来であるものか?
・悪政への反発なのか?
ここで、解釈が分かれます。
結論から言いますと、
・どちらの要素もある
ということになります。厳密に分ける必要は、必ずしもありません。
反乱を率いた張角には、たしかに宗教指導者としての一面もありました。
祈願による病気治療は、まさしくその一端を示しています。
これもややこしいところで、医学が未発達である時代には、祈祷による病気治療はごく一般的な手段でした。現代人が思うほどに、非科学的で異常なことでもありません。
もうひとつ「世直し」思想もそこにはあるのです。
【蒼天已に死す、黄天まさに立つべし】(蒼天はもう死んでいる、黄天こそ立つべきだ)
この乱はこう唱えました。
中国には五行説があります。
その相生説によれば、
【木(蒼・青・緑)→火(紅・赤)→土(黄)→金(白)→水(玄・黒)→木(蒼・青・緑)……】
となります。
漢は火(紅・赤)、そのあとは土(黄)の世が訪れるという発想になります。
そのため、彼らは黄色い頭巾をトレードマークとしたのです。
中国史においては、シンボルカラーやマークつきの反乱があります(【赤眉の乱】、【紅巾の乱】)。その思想を見逃すわけにはいきません。
このあたりで、気になるところが出てきます。
【黄天】に替わられる【蒼天】とは何か?
実はこれが諸説あり、確定していません。そこをふまえて、考えてみましょう。
黄をシンボルとするもの。それはもうひとつあります。
【黄老思想】です。
黄帝を始祖とし、老子が思想を大成したことから、こう呼ばれています。
王朝交代ではなく、思想の交代であるとすれば?
漢王朝とは、儒教思想を根本に置いた国家でした。
その儒教はもう古びた、儒教による支配体制ではもはや成立しないーーそういう解釈もできます。
儒教は道徳思想の面が強調されてはいます。
ただし実際のところ、宗教と道徳思想とは切り離せるものでもありません。
儒教がさだめた宇宙の最高神とは昊天上帝(こうてんじょうてい)です。
経典『詩教』「黍離」において、この昊天上帝は【蒼天】と同一視されています。青い空を司る最高神というわけです。
そんな儒教の世はもはや死んだ!
黄老思想の世よ、到来せよ!
そんな解釈もできる、それが【黄巾の乱】です。
いかがでしょうか。この反乱にも、宗教と政治改革両面が備わっているのです。
そしてこのことは、曹操の人生と思想にも大きく関わっています。
儒教思想確立後の中国において、儒教に逆らうことはどういうことか?
そのことを、頭の隅にでも留めておきましょう。
さて、話を曹操に戻しましょう。
『孫子』マスターで、知勇兼備。さぞや活躍を期待されたはずです。
かくして皇帝の侍従武官・騎都尉に取り立てられ、潁川の賊鎮圧に活躍したのでした。
このとき、劉備にせよ孫堅にせよ、反乱討伐に参加しています。
ただし、立ち位置は違うのです。
曹操は正規軍、他はイキのいい仲間を集めた義勇軍となります。
曹操は論功行賞によって、済南国の相(長官)に抜擢されました。やるじゃないですか。
そこで、お得意の過激政治を展開します。
・贈収賄を行う汚職県令の八割(!)を罷免
・景王劉章を祀る祠を片っ端から破壊する
曹操としては、これぞ【知世の能臣】だと堂々としたいほどの成果でしょう。
橋公、俺はやりました!
そんな高揚感もあったはず。しかし、やりすぎました。
「曹操は厳しすぎます!」
腐敗した漢王朝官僚からすると、やりすぎなのです。
八割となると組織崩壊にもつながりかねませんから、確かにやりすぎです。中央にツテがある県令から、クレームがどしどし届けられます。
過激統治が裏目に出た曹操は、このままだと家族にまで迷惑が及ぶと悟ったのでした。
辞職し、反乱以前の議郎に戻されたのです。
しかし、このポストもずっといられるものではなく、東郡の太守(長官)に任命されるのです。
曹操はこの任命そのものを病気だとして辞退しました。
【黄巾の乱】という非常事態を打開するために、一時期立て直しをはかったに過ぎない改革。
そんなもののために力を尽くしても無駄。無駄だから嫌いなんだ無駄無駄。そんな心境でしょうか。
10年や20年待って、ブレイクはましな世の中になってからでもいい。
そう考え、実家・譙に戻ったのです。
かくして早々は、実家郊外に書斎を立てると、冬から春は狩猟、夏から秋は読書をするという、悠々自適隠遁ひきこもりライフに入るのでした。
退屈しないものがあれば、こういうふてくされライフをエンジョイできる性格なのかもしれません。
しかし、それどころではなかったのでした。
外戚と宦官対消滅、そして漢王朝の断末魔
中平3年(186年)、辺章と韓遂が反乱を起こしました。
曹操はまたも漢王朝に都尉として採用されます。
中平5年(188年)となると、袁紹らとともに洛陽警備を担当する【西園八校尉】に赴任するのでした。
曹操は、霊帝から剣を賜り、高揚感と義務感にやる気を出したと回想しております。
中平6年(189年)、霊帝崩御、少帝即位ーー霊帝は暗愚と評価されてはおりますが、留意点もありまして。
・外戚と宦官に縛られていて、皇帝本人の器量だけではもはやどうしようもない
・【君側の奸】(=家臣をそそのかす家臣)さえ除けばよいという感想は、当時から見られている
君主の器量よりも、制度の疲弊が深刻であるもの。
後漢もその典型でした。
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十常侍や梁冀らに食い潰された後漢~なぜ宦官がはびこり政治が腐敗してしまうのか
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ともあれ、皇帝の崩御ともなれば政変が起こります。
今回も、お決まりの構図でした。
【外戚】何后(霊帝の妃、少帝の母)の兄・何進
vs
【宦官】何后
兄妹であっても、意見が一致するわけでもありません。
何后は宦官なしではいられないと兄に反発するのです。
このあたりも、宦官に頼る心理状態を考えていたほうがよいかと思います。
後宮で暮らし続けると、もはや宦官なしでは何もできない、マインドコントロール状態に陥るのです。
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業を煮やした何進は、腹心となっていた袁紹(154ー202)に宦官抹殺計画を立てます。
各地から董卓ら将軍を呼び寄せ、何后に威圧を与えるというものです。
これを聞いた曹操は、あまりのバカバカしさに呆れかえりました。
「宦官はいつでもいる必要悪だろうが。宦官を処罰するのであれば、諸悪の根源を処刑すればいい。処刑人だけで事足りる。それなのに、脅すためだけに将軍を呼ぶって? おまけに宦官皆殺しなんて、そんなもん計画がバレるだろ。絶対ろくでもない結果になるぞ」
室内の虫を退治しようとして火を振り回し、部屋ごと爆破炎上させるような計画。
リアリスト曹操からすれば、意味不明の極みといえる計画でした。
ただ、これが彼の辛いところ。
お前がぬるいことを言うのは、宦官の孫だからだろ!
そう偏見から邪推されかねない状況ではあります。
曹操はこうした計画から排除されていました。
曹操の読みは当たります。
何進は異変を察知した宦官に誘い込まれ、あっさり殺害されてしまったのです。
この杜撰な計画に乗っかっていたは袁紹は、素早い復讐を行います。宮中に乱入し、手当たり次第宦官を殺害したのです。
ヒゲがないために、誤って殺害された者までおりました。その犠牲者は、2千人を超えたとされています。
かろうじて逃れた十常侍も、殺害や自害を遂げ、全滅してしまうのでした。
かくして、外戚と宦官が対消滅する無茶苦茶な状況が発生します。めでたしめでたし♪とはなりません。
それも当然のこと。
曹操の言葉通り、宦官は王朝に必要なシステムでした。ここまでやると、機能が壊滅してしまうのです。
ここで董卓が、洛陽に乗り込んできます。
途中で脱出していた少帝と陳留王を従えての入城でした。
少帝を廃し、陳留王を献帝として即位させ、新秩序を打ち出したので何后は毒殺されてしまいます。
さて、曹操ですが。この状況では、もはやどうしようもありません。
様子を見るしかありませんが、朝廷から【驍騎将軍】に任命されています。
洛陽を脱出し、途中で殺されそうになったり、拘束されて知人の知り合いで逃れたり、サバイバルライフを送る羽目になります。
ここで、あの事件について弁護したいと思います。
フィクションについて触れるときりがありませんが、ここは曹操の弁護をしなければなりません。
【呂伯奢一家殺人事件】です。
呂伯奢という人物の家に立ち寄った際、曹操は自分を殺す算段を察知し、逆襲して逃げ切ります。
これがどういうわけか『三国志演義』はじめフィクションでは、曹操がおもてなしをしている呂伯奢一家を誤解して殺害した流れになっているのです。
「俺が世界に背くのはいいけど、世界の誰かが俺に背くのは許さないんだよ、バーカ!」
という決め台詞があります。
それはそれでクール。
ただし、あくまで史実では正当防衛です。誤解なきよう。
ともあれ陳留郡にまで戻った曹操は、董卓を倒すべく挙兵することになるのです。
反董卓連合軍結成! そして瓦解
初平元年(190年)正月――曹操は檄を飛ばします。
「董卓討つべし!」
反董卓連合の結成です。
ただ、曹操がリーダーとは言い切れません。
前年冬より、曹操は故郷周辺で兵士を集めてはおりました。
気の合う仲間と統合し、家財道具を処理して、5千ほどの兵を準備したのです。
ただ、この動きも袁紹の方が規模が大きいのです。
優柔不断なお坊っちゃま扱いをされる袁紹ですが、そう話は単純でもありません。
幼少期には生母の身分が低く、軽んじされた苦労も経験しております。
『世説新語』のような逸話集では、若い頃に曹操と悪さをして、いつも出し抜かれていた話もあります。本当にそういう悪ガキ仲間であったか、疑念は残るところです。何進の復讐のために宦官を抹殺したように、機敏な動きをすることもあるのです。
反董卓連合にせよ、将兵を集める上では、曹操よりもスピード感があったのです。
これは本人の器量だけの問題でもありません。
曹操:宦官の孫、どうしても不利な一族出身。若い頃はやんちゃをし過ぎていた。ふてくされて引きこもる時期もあったわけで、人脈の面で劣る
袁紹:四代連続「三公(司徒・司空・大尉)」を輩出した、エリート中のエリート。何進腹心としての実績もある。生真面目で勉強熱心だった
反董卓連合結成!
さぞやあの曹操は、エースだろうと思うところではあります。ただ、これは後世の活躍度からの逆算です。
スタート時、盟主はあくまで袁紹、曹操はその下についてるのです。
この挙兵を警戒し、董卓はとんでもない行動を取ります。
洛陽から長安へ遷都を強行したのです。
董卓は、禍々しい存在として認識されており、何の考えもなく悪政を敷いたように思えます。これについては注意も必要です。
彼は漢民族ではなく、羌族の影響が濃いとされています。
騎射に優れ、羌族とも親しかったのです。それゆえ、野蛮な異民族というニュアンスがつきまといます。
悪名を残して死んでしまったからには、対立勢力の誇張もあります。フィクションでそれが増加していくわけでして。
道理もわからぬ野蛮な所業ばかりとされるわけですが、そうでもありません。
蔡邕(さいよう・132か133ー192年・蔡琰の父)をブレーンとして登用しております。
政治改革を行おうにも、混沌とした状況下で実現できなかった、そういう一面も考えねばなりません。
遷都も、軍事的な作戦を考えれば合理性があると考えられます。無謀な思いつきでもないのです。
長安の方が、董卓軍の率いる西部の兵士補給に適しているのです。
長安遷都は、作戦として有効でした。
燃え尽きた洛陽を前にして、反董卓連合のやる気も燃え尽きたかのようです。放棄された洛陽はじめとする関東を、いかにして統治するのか。そういう厭戦気分すら蔓延していました。
曹操だけが、ハイテンションで洛陽を攻めろと主張します。
酸棗から出立し、自分だけでも董卓軍を討つと張り切るわけですが惨敗します。
徐栄と激突し、大敗を喫したのです。
将兵ともに失い、曹操自身まで流れ矢が命中し、馬まで倒れました。
ここで従弟の曹洪が馬を譲ったため、夜陰にまぎれて命からがら逃げ延びたのです。
徐栄も曹操のやたらと高い士気を警戒し、ひとまず深追いはしませんでした。
ここから先が、困ったことになります。ボ
ロボロになって連合軍まで引き返した曹操が見たのは宴会でした。
曹操はなんとか激怒をこらえ、必死で作戦を出します。
「董卓を関中に封じ込めろ。持久戦に持ち込み、ゲリラも使い、敵後方を撹乱させて補給を断つ。優位を見せつければ、世論は我々の味方となるはず。そうすれば勝てる! 正義のために挙兵しながら、互いに牽制しあっているとは。どうしてこんなに無様なんだ、まじめにやれ! 恥を知れ!!」
このときの曹操は、まっすぐな青年でした。
彼の望みはたったひとつ、シンプルなことでした。
「俺の望みは【漢・故征西将軍曹公の墓】と墓碑銘に刻まれることだけだ……」
それだけだったのです。本気です。カッコつけているだけじゃないんだぞ!
ただ、そんなやる気が周囲には通じません。辛い。
漢王朝は瓦解して、それを取り戻したいところまではわかった。
そのあとのビジョンがどうにもありません。
一人で戦い、叱咤激励する曹操。爽快感がある姿ではありますし、『三国志』「武帝紀」でも筆を割かれており、彼自身俺はやったという満足感はあるのでしょう。
ただ、これも曹操お得意の、空回り気味のところは否めません。
曹操は、この時代の人物でも資料が比較的多く残されており、性格の傾向が伺えます。
頭蓋骨も発掘されますので、健康状態も把握できるのです。
そのあたりから、私が感じた彼の短所を推察してみましょう。
・スタンドプレー好き、仕切り屋
・忠告や警告をするにせよ、言い回しがきつい、一言多い、ジョークのセンスが悪趣味
・機嫌次第で露骨な塩対応をする
・自分の意見をごり押しし過ぎている。本人には確信があっても、周囲からすればうまくいく確証もない
・皆の不安感を和らげる心理的な歩み寄りが、あまり感じられない
・やりすぎ。過激な行動の結果がどうなるか、考慮しきれていない傾向がある
ちょっとここで、袁紹のことを考えてみましょうか。
名族のお坊ちゃまで、決断力に欠けていて、無能とすらされがち。
しかし当時人望はあり、実際に多くの士大夫や将兵が集まっているのです。ただの優柔不断な人物であれば、そうはならないのではないでしょうか。
曹操ができないこと。
空気を和ませつつ、皆の意見を取り入れてまとめる。そういう人徳があったことが、想像できませんか。
そして、ライバルたる曹操にはそのあたりが欠落していたのでしょう。
理由はお察しください。
曹操は、彼自身の書き残した文章や記録からすると、ニヒルでもクールでもない性格が伝わってきます。
フィクションだと、悪役にするにせよ、カッコいいヒーローにするにせよ、基本的には割と落ち着いているものですが。
実際の曹操は、躁鬱傾向、言わないでもいいことを口にするところ。おもしろいと笑い転げるところ。そういう情緒不安定なところがあるように思えます。
意見を却下され続けると、精神状態が露骨に悪化するようです。
かくしてストレスが溜まり続けた曹操は、夏侯惇ともども酸棗を脱出し、揚州に募兵ツアーを行います。
2千人募兵したものの、反乱を起こし曹操を殺そうとした挙句、手元に残ったのは5百人でした。曹操はそれでも一応のミッションを終えて、袁紹の元へ戻ります。
そのあと待っていたのが、ストレスがますます溜まる状況でした。
董卓から派遣された使者を連合軍が殺害するわ(※重いルール違反です)。
連合軍の同盟がますます緩くなるわ。
袁紹は、連合軍の要として新皇帝擁立を画策します。
大司馬・幽州牧(長官)の劉虞でした。彼は先祖を遡れば、光武帝にまできっちり辿れます。
この計画に、袁術は何を考えているのかと反発します。
曹操も反対し、こう言い切りました。
「お前らはその新皇帝に忠誠を誓えば? 俺は西にいる本物の皇帝に尽くすからさ」
この計画は、劉虞本人の辞退で終了となります。
袁術と袁紹は分裂。袁術は江東の孫堅らを呈して依拠するのです。
袁紹は、北部の冀州を依拠することに。曹操は、袁紹側につくことになります。
ここまでが、初平2年(191年)までのざっくりとした状況であるとご理解ください。
さて、無茶苦茶となった董卓討伐ですが。
あっけない終わりを迎えることとなります。
打ち切りのような展開、それが初平3年(192年)呂布による董卓暗殺です。
あれだけ大暴れして、連合軍が手出しできなかった董卓。それがそういう終わり方でいいのだろうか。
これは、作家や読者や観客が、ずっと思ってきたことでして。
絶世の美女・貂蝉を投入した暗殺劇が展開されるわけです。
その根底には、呂布が董卓配下の女性と密通しており、発覚を恐れていたという史実がありました。
ここで、ちょっと曹操の擁護をさせていただきましょう。
曹操ばかりが非常識で、隙さえあれば人妻と関係しようとしただの何だの言われておりますが。
これは彼一人だけの話でもありません。
講談や京劇といったフィクションでは、貂蝉が関羽の妻となる展開がありました。
これはただのおもしろ捏造ではなく、関羽が呂布部下の人妻に執着し、欲しがっていたという、ソースがあるのです。
そのあたりは別の機会に掘り下げるとして、ひとまず貂蝉のことはこちらでご確認ください。
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さて、こうして空中分解してしまった反董卓連合。その顛末を見届けて、曹操がストレスの極みにあったことは想像できます。
彼の目が見た地獄絵図は、『蒿里行』(こうりこう)として詠まれることとなります。