規格外の英雄その名は曹操!乱世の奸雄は66年の生涯で何を夢見ていたか?

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華北の覇者

第一の魔女:
マクベス公万歳! 貴公こそがグラミス公!
第二の魔女:
皆の衆、マクベス公を讃えよ! 公を崇めよ! これぞコーダの主よ!
第三の魔女:
皆の者、マクベス公を敬え! 公こそが不滅の王!
『マクベス』第一幕第三場

曹操の思い切りの良さは、プラスに出るとよいものです。

袁紹に勝利を収めた戦後処理の最中。曹操陣営から敵と密通していた証拠物件がボロボロと出てきました。
曹操はこれを集め、密通未遂者を粛清をするどころか、一気に焼き捨てたのです。

「仕方ないんじゃね。俺だって袁紹相手に弱気だったんもん、普通の人ならそりゃビビるでしょ」

そう言い切った!
寛大さのアピールにもなりますが、曹操自身のメンタルにも有効な手段です。一度疑うとキリがないのならば、証拠ごと消すのが最善なのです。こういう思い切りの良さは、プラスです。

敗れた袁紹は逃げ延びたものの、建安7年(202年)病死しました。
このあと、後継者をめぐり分裂の様相を見せるのです。

長男・袁譚:辛評、郭図
三男・袁尚:審配、逢紀

後継者争いを愚かと批判する資格は、同じ問題で揉めた孫権、そして曹操にはないと思います。

同時期に同じ問題が起こる。
このことは、後継者選択が制度や思想的に不安定だった可能性も考慮しなければなりません。

そのことはさておきまして、分裂が袁一族の寿命を縮めたことは確かでしょう。
郭嘉は、こう分析します。

「厳しく当たると、あいつらは結託して面倒なことになりますよ。自由に泳がせれば、自滅し合う。そこを狙えばいいんです」

その通りでした。
袁譚陣営からの辛毗降伏を筆頭に、内部崩壊が始まります。

袁譚は降伏するものの、謀反の動きを見せたため、建安10年(205年)に処刑。
建安12年(207年)、袁煕(袁紹二男)・袁尚は烏丸族に逃げ込み、公孫康によって殺害されて首級が曹操の元に送られます。

かくして名門・袁家は滅亡を迎え、曹操が中国北部を制覇しました。

このとき、曹家は思わぬ人材も得ているのです。
曹操が陥落させた袁家本拠の鄴城から、陳琳という文人が引き立てられて来ました。

「よっ! これ、お前が書いたんだろ。読んでみ?」

曹操は、ノリノリで彼にある文書を渡します。それは曹操を罵倒し尽くした、官渡前の檄文です。

これを読み曹操は、
「書いた奴絶対ぶち殺す!」
宣言をしておりました。

孟徳さん、趣味が悪すぎませんか!
ちょっとまとめてぶっちゃけた意訳をしますね。

・曹騰はゲス宦官の極み。宦官仲間や姦臣と結託して人の生き血を啜り、不埒な悪行三昧!

・曹嵩は成金ゲスセレブ。センス最悪の悪い車を乗り回していて、もう見てらんない!

・はい、その子孫の曹操ね。アレはゲス宦官の残した最低のカス(贅閹の遺醜)。人徳ないし、性格キツいし、戦乱でヒャッハーして、人の不幸で飯がうまくなる。そういうクズですよ、クズ!

・自然破壊するし、墓場泥棒して死体と写メ撮ってSNSに投稿するレベルのアホだし。もう非常識。下衆の極み!

これを本人の前で読まされる――あまりにきついシチュエーション。
早く殺してくれないかな……そう言いたくなるでしょう。

曹操は、冷静に突っ込みます。
ニヤニヤしていてもおかしくはないのでしょうが。

「まぁ、お前の文才は認める。センスあるわ。でもさ、祖父と父まで触れる必要があった? 黒歴史暴露するにせよ、範囲は本人だけにしとけってルールがあるわけでさ」

曹操本人は、本人の責任にないことは責めません。
不可抗力であればスルーできるのです。それはそれ、これはこれ。
だからこそ、自分ではどうしようもない先祖の行為を触れることは、ルール違反なのでしょう。

陳琳は開き直りました。

「それはですね。矢が弦の上にあれば、発射するしかないってことなんです」

文筆業で生きているからには、雇用主のためにベストを尽くすまで。
曹操の欠点を刺激してこそ、プロというものでしょう。

その宣言に、曹操は喜びます。
「認めおったーッ! そのプロ根性、悪くない。むしろ好きだわ!」

戦う前には檄文が必要だし、レスポンスのセンスが最高。
曹操は陳琳を愛し、彼は当時の文壇で活躍することになります。

ある日、曹操は陳琳のドラフトを読んでいて、立ち上がりました。

「陳琳の文章がセンスありすぎて、頭痛がふっとんだー!」

曹操は持病の頭痛に悩まされていたのですが、その痛みすら文才で飛ばすほど痛快爽快最高だったわけですね。

ただ、この価値観を共有できたのは、曹操だけでした。
曹丕と曹植は、割と容赦がありません。

曹丕は、
「彼には文才がある。以上」
と実用性以外をスルー。

曹植に至っては、
「陳琳は詩の才能があると誤解して、調子に乗っているけど、どうなんでしょう。虎を描いていると思っているのは本人だけで、実物は犬のスケッチ。そういうレベル」
と、ぶった切っています。檄文が得意で、詩にはセンスがなかったのでしょうかね。

曹丕と曹植の運命を変える女性も、同じく鄴城におりました。

袁煕の夫人である甄氏です。
城で彼女を見出した曹丕が、惚れて妻にしたのです。あまりに美しいため、曹操がこう言ったとかなんとか。

「チッ、狙ってたのに先越されちまったよ」

曹植もこの美貌の兄嫁に片思いを募らせ、『洛神賦』を詠んだとされていますが、これは創作ではあります。

弟と妻の感情を嫉妬した曹丕が、処刑に追い込んだとも。
事実かどうかはさておき、そうみなされる何かはあったのでしょう。

一連の真偽はともかく、誇張もあるとしまして。この時点で、曹一家はかなりおかしいことをかましております。

滅ぼした敵の妻を、こんなふうにゲットする。
そういうことをして、世間が警戒すると思い至らなかったのか?

曹操は、そう言えなかったのか。自由すぎる息子の恋愛を許してしまったのか。
そこがドラマチックといえばそうではありますが、曹一族は恋愛でもちょっと規範からずれていると思えるのです。

 


丞相独裁体制

曹操の人生におけるピークがあるとすれば、官渡の戦い前後であったと思えます。

そのあとは、精彩を欠くことは否めません。
それまでだって欠点も失敗はありましたが。

建安13年(208年)、宿敵袁家を制覇した曹操は、鄴に凱旋し王朝の大改造に入ります。新しい時代への、総仕上げに入ったのです。

三公(大尉・司徒・司空)の廃止、丞相・御史大夫復活が手始めとなります。
当時、そのポストはこうなっていました。

大尉(軍事):空位
司徒:趙温→罷免
司空:曹操

三公のうち、司空・曹操だけが残る。こうして形骸化させてから、改革を断行したのです。
それから丞相として、いわば独裁体制を整えたと言えるのです。

回りくどいようでいて、この手口は洋の東西を問わずあるものです。

1799年のフランス。
東方遠征失敗により謹慎状態であった将軍ナポレオン・ボナパルトが、クーデターを断行します。
当時のフランス革命政府は、第一統領3名による統治システムがありました。このうち2名が事実上傀儡となり、ナポレオンの実質的な独裁が始まるのです。

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『三国志』は【三】という数字に特徴があるとされています。
中国独自のようで、世界的な真理であるという見方もできるのです。

奇数である三は、ジャンケンのように三すくみとなって、独裁を防ぐ効果があるのです。
三権分立も、この思想が背後にあります。ただの偶然ではありません。

その形骸化をするとなれば、曹操にせよ、ナポレオンにせよ、手段が一致する点においては何ら不思議もありません。
曹操のこの動きを見て、警戒心を募らせた人々がいても、それはおかしくありません。
曹操は【三公】を廃したあと、国そのものを【三分裂】させることになるのです。

さて、あの決戦前夜。
曹操は、ある人物を死に追いやりました。

孔融(153ー208)です。

孔子20世の孫であるとされています。
幼い頃から天才として有名で、清流派の一員として名を馳せておりました。

後漢末の混乱の最中、転々として曹操陣営に加わり、

【建安七子】(孔融・王粲・陳琳・徐幹・阮瑀・応瑒・劉楨)

の一員にも数えられています。

フィクションでは、孔子の子孫であることを鼻にかけていた優等生的な描写もされることがあります。
ただ、これはどうにもしっくり来ない。
曹操の文壇で活躍する前提条件として、儒教的な価値観と距離を置くことがあると考えられるのです。

孔融の発言にも、親子の基本的な情を全否定するような、現代の目から見ても過激なものが多いのです。
奇矯で過激な言動で知られる禰衡(173ー198)とも、気があっています。

ただ、これがおそろしい結果につながるのです。彼らは自由過ぎました。

禰衡の、あまりに過激な発言にいらだった曹操は、建安3年(198年)、劉表の使者に送りだしました。
これが、ろくでもない発言をして殺されることを期待していたのではないかと思われるのです。

案の定、劉表配下の黄祖によって殺害されました。

友人をこんな罠にかけられて、孔融は反発があってもおかしくありません。
曹操との対立が深まる中、曹操が赤壁へと出陣した留守中に、孔融の過激発言を弾劾する告発があったのです。

この発言は禰衡とのトークバトル(のちの【清談】原型)中に冗談半分で言ったようなもので、本気とは思えないものです。
些細な揚げ足取りをされて、孔融は妻子もろとも処刑されました。

なぜ、孔融は死へと追いやられたのか?
曹操が孔融のろくでもない発言を憎んで殺すにせよ、どうしてこのタイミングなのか?

計画的であることは確か。
世間の反発をある程度考慮したのか、留守中に殺すことで曹操卑劣なごまかしの形跡は見え隠れしています。

そんな小細工を使用と、世間は見逃しません。
曹操はあの孔子の子孫ですら容赦なく殺すということ。
才能を愛する一方で、幼いながらも才知溢れる孔融の二子も、ここに加えるのです。

孔子の子孫を殺したこの行為は、曹操の非常識、悪行として語り伝えられてゆくのです。
用意周到でありながら、その一方でどうしてこんなに杜撰なのでしょうか?
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