規格外の英雄その名は曹操!乱世の奸雄は66年の生涯で何を夢見ていたか?

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袁紹との決戦

寡兵、寡兵なれどの我らこそが、僥倖に恵まれし兄弟団なのである
なぜならば、今日私と血を流す者こそが
我が兄弟となるからだ
どんな身分に生まれていようが関係はない
今日から我らこそが天下に名乗りをあげるのだ
『ヘンリー五世』第四幕第三場

さて、ちょっと南に目を向けてみましょう。
江東です。

袁術にかわって、孫策がぐんぐんと力をつけてはおりました。

曹操は、こうぼやいております。
「イキってるガキとはやりあいたくねえぞ」

建安5年(200年)、孫策は非業の最期を遂げます。
その跡を継いだ孫権(182ー252)は幼く、脅威となるにはまだ優先順位が低い状態です。

一応、孫氏に対しては政略結婚を持ちかけており、それなりのくさびを打ち込むことは成功しています。
その策を、のちに周瑜や魯粛の支えを受けて、孫権が吹き飛ばすわけですが。

ただ、曹操がノーマークであったわけではありません。
周瑜(175ー210)のスカウトをして、失敗しております。情報集めもしていたようです。

曹操のターゲットは、袁紹に定められました。
スタート時の血統、勢力差を考えれば、よくぞここまできたものです。

曹操は、献帝というカードを生かして袁紹の心理にゆさぶりをかけております。献帝掌握前後から、曹操周辺の官位がめまぐるしく変わります。
官位任命権を得たから好きにできるとアピールする効果があります。日本の戦国時代における、天皇掌握にも似た構造があります。

同時に、地形整備も行なっておりました。
戦いとは、矢が放たれてから始まるものではありません。

戦場をいかにして整備するか?
そこへどうやって敵をおびきよせるか?
この時点で始まっています。

『孫子』マスターの曹操からすれば、その程度のことは常識。
あとは袁紹をおびきよせればよいわけです。

一方で、袁紹はそこまで思い切った行動をとっていないのです。
配下の田豊や沮授が献策しても、なかなか取り上げられません。袁紹配下には、不穏な空気が立ち込めておりました。

といっても、これは曹操側も同じことでして。
どうにも、袁紹と二股をかけていた人物はそれなりにいた形跡があります。そのことは、あとにでも。

曹操の発作的激怒も、この流れで発生しております。

袁紹陣営の檄文を読みまして。

「これを書いて奴は誰だあっ! 見つけ次第ぶちのめす!!……でも、これを読んでいると俺ですら、曹操は最低最悪だと納得できるから、そこはすげえな」

孟徳さん、キレるか感心するか、どっちかにしましょうよ。
これについても、あとで触れましょうか。

 

【官渡の戦い】開戦

建安5年(200年)正月――曹操は、徐州に打って出ます。
ここで曹操は劉備を打ち負かすわけです。

董承の陰謀や、劉備の動きを踏まえますと、このときこそが許を狙う千載一遇の好機です。
田豊は袁紹にそう進言するものの、袁紹は我が子の病気を口実にして、動かないのです。田豊は杖で地面を叩き、その優柔不断さを悔しがりました。

二月になってようやく、袁紹は許攻撃を命令しますが、遅すぎました。

袁紹は優柔不断とされています。
こうした一連の行動を見ていると、それもそうだと思いそうになりますが。

長所と短所は紙一重。袁紹は彼なりの理由があるのではないでしょうか。
巨大化した軍団の意見を幅広く取り入れますと、どうしても動きが鈍くなるものです。乱世でなければ、袁紹は優秀で寛大な人物となり得た可能性はあるのですが……。

かくして【官渡の戦い】が始まります。

袁紹
vs
曹操

さて、曹操の情熱的な親切三昧に悩んでいた関羽ですが。
前哨戦となった「白馬の戦い」に、張遼とともに参戦しました袁紹側の将・顔良を討ち取る功績をあげます。

律儀な関羽は、それを置き土産として劉備の元へ戻るのでした。
ちなみに文醜もこの戦いで戦死していますが、顔良とセットにして関羽の手柄とするのは、フィクションによる脚色です。

曹操と袁紹はそのあと、持久戦が続きます。
当時は全勢力が慢性的食糧難に悩まされております。そこは考慮しなければなりません。

動きが活発だった曹操の方が、この点では弱いとみなせます。
実際に、袁紹陣営では持久戦になれば勝利できるという意見がありました。

母数が多い袁紹も、厳しいことは確かです。

袁紹は【高櫓】(高い櫓)と【土山】を作り、猛射撃をします。
于禁率いる曹操軍は【発石車】で対抗しました。
袁紹軍は【霹靂車(へきれき=雷鳴)】呼ばわりしたというのですから、強烈な兵器です。

袁紹軍がトンネルで地下から潜ろうとすると、察知した曹操軍はもっと深い塹壕を掘って対抗します。
袁紹は以下の劉備にも牽制をかけつつ、反乱の動きも察知しつつ、曹操は粘り続けます。

負傷兵は増える。
兵糧も苦しい。

こうなると、あの要素も大事になって来ます。
メンタル、粘り強さです。

「もうダメだ……なんか持たないんじゃないか。撤退したい……」
はい、折れたのは曹操でした。

孟徳さん、持久戦になると数ヶ月くらいで心が折れる傾向がありませんか?
呂布の時もそうだったし。

曹操から撤退したいという手紙を受け取った荀彧は、叱咤激励をします。

「はいっ、殿、がんばって、もうちょい、もうちょいですよ! 項羽vs劉邦よりはマシでしょ。ここが、踏ん張りどころ。諦めたら、そこで決戦終了ですよ。殿は十分の一程度の兵力で、敵をここまで苦しめてもう半年! もうすぐ、あとちょっとで絶対に何か変化がありますからね。そこで逆転奇策を用いるんです。そのタイミングを逃さないで!」
「うん、わかった、がんばるッ!」

曹操は、素直にこの意見を受け入れました。
ときどきネジを締め直せば、本当に彼はがんばれるんです。

荀彧は賢いだとか、曹操は意見を聞くとか。そういう要素はもちろんあるのでしょうが、荀彧はじめ曹操陣営のブレーンは、コーチングスキルがあったんじゃないかと思いますよ。
孟徳さんは、がんばればとてもできる子なので。

そして10月。曹操は何かを察知します。

補給線が伸びきっている。
補給隊を襲撃したら、楽勝だった。

こちらの兵糧もあと一ヶ月しか持たない。
一方で袁紹にはあるらしい。しかも手薄と来た。

何かがおかしいぞ……危険性に気づいていたのは、袁紹側もそうでした。
配下の沮授は、食料庫の防備を固めるべきだと主張しますが、却下されてしまいます。

そこでタイミングが訪れました。
袁紹陣営の許攸が寝返ったのです。

「えっ、ほんとうに? よっしゃあああああああッ、やったああああああ!」

曹操はハイテンションの極みになって、裸足で猛ダッシュして出迎え、はしゃいで手をパチパチと叩いていたというのですから、もう……。
これはネタじゃない、史実です。孟徳さん、落ち着いてください。

これが記録に残るということは、曹操のハイテンションはちょっと印象が強すぎたと、当時から認識されていたのでしょう。

許攸は袁紹の幼馴染であり、曹操ともつきあいがありました。
許攸は親族逮捕といった出来事が重なり、投稿して来たのです。

しかも、最高の機密情報付きで。

「烏巣、ここの駐屯部隊が食糧をたんまり持っているんですよ」
「マジかよ!!」

最高のタイミングで、最重要情報!
流石におかしくないかと曹操の家臣でも意見が割れるのですが、荀攸と賈詡はプッシュします。

彼も許攸と同じく主君を替えてきましたので、何かピンと来たのかもしれませんね。

「おっし、ここは俺自ら5千を率いて行く!」

テンションあがりっぱなしの曹操は、自ら烏巣に乗り込みました。
カッコいい孟徳さんではありますが、これはあくまで成功例。
スタンドプレー気味で死にかけたこともあります。自ら乗り込むことの是非は、ケースバイケースとしましょう。

淳于瓊が応戦しますが、圧倒的不利です。
袁紹は、ここでもたついてしまいます。

総大将の曹操がいない官渡を急襲するか?
烏巣に援軍を派遣するか?

張郃は烏巣救援を主張するものの受け入れられず、官渡へ向かいます。

烏巣には軽装軍が派遣されるものの、時すでに遅し。
一方で官渡は防ぎきる。

そんな中、一連の流れに嫌気がさした張郃は官渡で降伏。
流れは曹操に向いて来ました。
袁紹と袁譚は8百騎を率いて、逃げ惑うしかありません。

曹操、絶好調です!
メンタルを切り替えて戦いに臨むと、圧倒的に強いのです。曹操は、天下分け目の戦いで大勝利をおさめました。やったぞ!

しかしここで、この決戦のげんなりさせられる締めくくりを記さねばなりません。

袁紹配下から離脱した沮授を見て、曹操はこう言いました。

「袁紹があなたの計略を用いていたからこそ、動乱が十年以上続いて、まだ安定していないほどなんだ。これからは、私の元で力を尽くしてくれ。遅すぎたくらいだ。もっと早く来てくれればよかったのに」

才能への賛美は、ちゃんとある。
ただ、情緒を無視する悪い傾向が出ています。

賈詡のような割り切り系ならばともかく、義理堅い沮授は違います。
恥辱と義理のために逃走し、殺害されてしまうのです。

沮授には才能があった。使い道がある。だから曹操は惜しみました。
そうでない者は?

投降兵7〜8万は処刑されました。

曹操には自軍を養うほどの兵糧もない。治安悪化を招く。使い道がない。
そのためには処刑しかないと思ったのでしょうが、徐州大虐殺とともに、曹操の天下統一を遠ざけた一因となったことは否定できません。

決戦前の曹操陣営は、袁紹の欠点を郭嘉らとステータス化ごとにまとめていました。
曹操自身も、こう分析しています。

「袁本初の性格はわかっているんだ。野望はでかいくせに、結局のところバカなんだよな。ヒーロー気取りしているけど、ビビりだし。謙虚なふりをしているけど、威厳がないことをごまかしたいだけ。兵だけ無駄に多いけど、指揮系統が無茶苦茶。諸将がバラバラに主張していて、統制ってもんがない」

曹操側の主張は、その後、歴史的にずっと残されていて、袁紹の評価は散々なものなのです。
そんなにしょうもない、くだらない人間ならば。沮授はじめ、大勢の名士がついていった理由はどのあたりにあるのでしょうか?

曹操は、袁紹は俺とは違うと主張したがっている。
その違うところにこそ、袁紹の魅力があったのかもしれません。

そして、袁紹にはない欠点。
曹操の悪いところは言動から推察できます。

沮授の気持ちを無視する。
使える人物かどうかばかりを、一方的に言い募る。
役に立たないとなれば、情けもかけずに投降兵を殺してしまう。そういう思い切りの良さは、褒められることではありません。

大勝利でも、性格的な欠点が出てしまう。それが曹操なのです。

そんな両者の性格もわかる。そんな若き日の会話が残されています。

袁紹は地形を考慮しながら、こう言いました。
具体的なプランです。

テーマは天下取り。袁紹はこう主張します。
袁紹はロールモデルとして、光武帝を意識していたことも伺えるのです。

「南は黄河。北は燕・代。戎狄の兵力も頼りにして、南に進む。それでこそ、天下が狙えるはずだ」

それに対して、曹操はこう言いました。

「この天下には、勇者、智者が大勢いるんです。彼らに才能を発揮させて、そのうえで道理をもって統率すればいい。そうすれば、不可能なことなんてないと思いますけど」

孟徳さん、なんだかものすごくカッコいいんですけど、話がでかすぎます!
これも曹操の魅力であり、原動力であり、本質であり、そして欠点なのでしょう。

袁紹はむしろ普通なのです。
よい意味での、普通の人。真面目でした。

実は、曹操も本音では袁紹を認めていたとわかる、曹丕によるこんな回想もあります。

父は勉強熱心で、戦場でも書物を手から離さなかった。
父は私と顔を合わせるたびに、こう振り返ったものだ。

「人って、最初は勉強をするものだけれども、そのうちやめるもんだ。名を成してからも励んでいたのは、俺と袁本初くらいだな」

二人とも、ともかく勉強熱心だった。そこまでは同じ。

けれども、曹操は袁紹とはなにかが違う。
曹操は、話がでかくなる。なんだかものすごい哲学、宇宙のようなものが頭の中でぐるぐると回っている。

制御できればいい。そのノリに乗れたらいい。
けれど、そうできない人間からしたら?
彼は歩く災厄、混沌なのでしょう。
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