規格外の英雄その名は曹操!乱世の奸雄は66年の生涯で何を夢見ていたか?

見出された【治世の能臣、乱世の姦雄】

ヘンリー王子:
お前らが何を言っているかくらい、わかっちゃいる
そのうえで、お前らの悪ふざけにつきあってるだけなんだ
俺は太陽の真似をしている
黒雲に覆われて、地上からは見えなくなるかもしれんが
一度光を取り戻せば
民は驚き喜び、その輝きを仰ぎ見るんだ
それまで覆っていた黒雲なんて、
あっという間に吹き飛ばせる
『ヘンリー四世 第一部』第一幕第二場

曹操は、若い頃あまりにチャラい奴(=軽佻浮薄)だと噂になっていたとか。
呉で編纂され、誇張があるとされる『曹瞞伝(意訳:曹嘘つきちゃん伝)』。そこには、若き日の姿が記されています。

ニックネームは【阿瞞(意訳:嘘つき小僧)】。

騙すことを認識して、嘘をついていたのか?
そのつもりはないのに、考えがコロコロと変わるため、相手からすると嘘に思えるのか?
豊かすぎる想像力で、無茶苦茶なことを口走っていたのか?
意地っ張りですぐばれる強がりを言ってしまうのか?
疑い深くて、冗談が好きで、試すようなことを口走るのか?

曹操は、ある意味ずっと【阿瞞】であったのではないかと、思える言動が残されています。
悪意ではなく彼の本質が、この名にこめられているのかもしれません。

少年期の曹操はひねくれていました。

チャラチャラしていて、威厳ゼロ。
音楽大好き。ミュージシャンをはべらせては、日がな一日聞いている。

くつろぎたいときは、体にフィット感のある絹製の服を身につけている。そこに、ハンカチや小物を入れるレザーポーチ持参。頭にはきっちりした頭巾や冠ではなくて、ラフな帽子を乗せるだけ。

人と話す時は、ともかく威厳がないわ。落ち着きもない。
いちいち揚げ足取りをするような調子で、からかい半分。真面目にやる気なし。

宴会だと笑い転げて、食器に頭を突っ込んでベタベタにするほど。
マナー? 知らね。
お行儀が悪いんですね〜。何か問題があるのかな?
そう突っ込みたくなりますし、リアリティがあるっちゃそう。こういう奴、あなたの周囲にもいませんか?

ファッションは何が問題か、ということですが。
ぴったりした衣服は、漢民族らしからぬものという美意識があります。

頭も適当な帽子って、ありえないし!
そうなるのです。

清少納言の父・清原元輔は落馬の際に冠が落ちて、頭が露出して笑い者になったことがあります。

清少納言はインテリでヒステリックなの?結婚歴や枕草子秘話などの素顔

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彼は禿げていたため、現代人からすると「毛のない頭が恥ずかしかったんだね」となりそうですが。
そうではないのです。儒教文化圏ではこういう価値観があります。

何もつけない頭を晒すこと=現代人にとってのパンツか、その中身が見えた状態

清少納言の父にせよ、若き日の曹操にせよ、頭のガードが弱いということは、そういう意味でも大問題なのです。
曹操の若き日のファッションセンスを現代風に解釈しますと……。

・威厳より楽であったほうがいいだろ。まじめに制服なんて着てられねえし
・わざと見せつける下着がおしゃれなんだよ
・汚れても気にしないし。楽しければいいじゃん

ここでちょっと理想的な姿を想像してみましょうか。

・ゆったりとしている
・派手すぎない。絹? そんな高級品はいけません!

要するに、諸葛亮の服装だと思ってください。
史実として、彼がどういう服装かであったかどうかはさておき。あの服装は、あるべき理想です。

『曹瞞伝』が描く曹操は、その逆です。
意識的に、規範をはみ出していたのかもしれません。

呉の強調があるとはいえ、少年曹操はチャラかったんです!

こういう悪意ある逸話は捏造説もあります。ゴシップネタではあるのです。
『世説新語』といった書物も、曹操のネタ言動が掲載されております。こうした記述を、全否定できるかというと、そう単純なことでもありません。

・そういう噂が流れる何らかの要素はあった
・あいつならばやりかねん……と思われていた
・他の逸話や本人の言動との整合性
・経過年代

三国志演義』ともなると、時間経過の影響もあります。
ただ、『曹瞞伝』や『世説新語』は、生前の曹操を知っていた人物がソースという可能性は否定できません。情報として、なかなか生々しいのです。

曹操の魏は、全土を統一まで時間がかかったうえに、統治が短期間です。

三国時代の人物は、周辺情報のクリーンアップができなかったこと。
ライバルの貶めるゴシップも残ったこと。
フィクションでの追加要素が多い。

この点は、注意が必要ではあります。
本稿では、信憑性が低い、整合性があわない、人格形成に関係があまりないと判断した逸話は、極力取り上げないようにしています。

それでも、複数のソースや本人の言動と一致する点があれば、全否定もできません。
若き日の曹操やんちゃ伝がそれに該当します。

なんだか曹操の青春時代は、楽しそうに思えます。
正史の記述からすると、恵まれたおぼっちゃまのようには思えますよね。

・運動能力抜群! 剣術は強いし、馬術もできるぞ
・賢い。芸術的センスもある。書道も達者
・酒、キャバクラ通いその他、不良行為をエンジョイしていたようだ

ただ、そう単純でもないのです。

本人には何らか劣等感があったと、複数の逸話が残されているのです。

誰が見ても惚れ惚れとする、例えば周瑜のような、そういう長身イケメンではなかったのだと。
『世説新語』成立期から、容姿へのコンプレックスが逸話として広められているのです。

中国では、フィクションで容貌コンプレックスが強調されてゆきます。

※京劇はいかにして陰険であるか、強調されています

それを差し引いても、出自と外見には劣等感があったと推察できるのです。
その顔が、科学技術を用いて復元されましたが。

なんだかんだと言われていますが、曹操本人がそこには生前意見をビシッと出しています。

「は? 顔グラだの絵師だのカードの図柄でなくて、パラメータで判断しろよ」

そういう趣旨のことを、当時の言葉で断言していますので、顔はどうでもいいということを頭の隅にでも入れておきましょうか。

さて、そんなわけでいろいろ面倒くさい若き曹操。
反抗心はバリバリ。才能もある! そんな少年も、大人になると、身の処し方を考えるようになるのです。

やんちゃをエンジョイするだけの人生じゃつまんねえな。
何かビッグなことをやりてえし……そう思ったのでしょう。
そんな中、ただでは済まないことまでやらかしています。

大物宦官・張譲邸宅に侵入し、暗殺を狙ったのです。

さすが孟徳さん!
おれたちにできない事を平然とやってのけるッ!
そこにシビれる! あこがれるゥ!

ここまでやらかせたのも、大物宦官の孫という出自もあったのでしょう。
こんなことをしたらただは済まされませんが、家名が彼の犯罪を庇うのです。

この劣等感を逆手に取る思考回路は、曹操のセオリーでもあります。

曹操は、宦官の孫であることを気にしていたとは、よく考察されるところではあります。
ただ、逆手に取ってウェーイしている言動もあるとは思えるのです。

この、俺はありのままに生きてやる感よ。

それにこれは【義挙】でもある。

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中国はじめ東アジアでは、絶大な権力者に暴力で対抗することは【義挙】として賞賛されました。
そういうデカくてカッコいいことを、曹操は若い頃から成し遂げたかったのです。

ただ、暴れてばかりじゃいられない。
そんな曹操少年は、もっとビッグなことを夢見るようになります。

建寧5年(172年)、曹操18歳。

青春をエンジョイどころか、いろいろ考えながら世の中を見るしかない。そんな時代でした。
時は霊帝の御代。曹操はそれなりに遊び呆けておりましたが、洛陽で彼を見る目は冷たかったと思われます。

それは彼の素行が悪いというよりも、出自のせいです。
当時、後漢では【党錮の禁】の嵐が吹き荒れていました。

【濁流派】宦官
vs
【清流派】それ以外の士大夫・党人

宦官か、そうでない官僚か。
宦官に反発する士大夫が、宦官によって弾圧される恐怖政治が吹き荒れていたのです。

そんな世の中で、宦官の孫であるものの、本人は宦官でない曹操とは、どちらにも所属できないはみ出し者でした。

そんな曹操を、ある人物が見出します。

「いろいろな名士を見てきたけれども、きみみたいな人は初めてだ。自分を大切にしなさい。きみは将来、大出世して大物になる。私の妻子のことを任せたいほどだ」
この出会いが、曹操の人生を変えることとなるのです。

彼を見出した人物とは橋玄(109ー183)です。
宦官に立ち向かいながら、三公を歴任された名高い士大夫でした。

毅然とした態度でも名高いものがあります。

あるとき、橋玄の家に盗賊が乱入し10歳の末っ子が人質に取られました。
官吏は人質を恐れ手出しできないものの、橋玄はこう言い切ったのです。

「我が子の命を惜しんでなるものか。それよりも賊を捕らえろ!」

人質ごと殺せ。
そう宣言し、処断したのです。

この事件をきっかけに、人質事件は激減しました。
テロリストとは交渉無用。現在に至るまで通じる理屈がそこにはあります。

そんな断固たる人柄を、曹操は敬愛したのです。

曹操の感謝の言葉には、やんちゃをやらかしてばかりだった不良少年が、優しい大人に受け入れてもらった。そんなストレートな気持ちがあって、なかなかグッとくるものがあります。

「橋公には、感謝しかない。自邸の奥まで招いていただき、あんなにひねくれていたクソガキを受け入れてもらって……私が世間で認められるようになったのは、彼のおかげだ。そんな橋公はおっしゃっていた。私の墓を通りかかった時、好物の酒と肉を供えずにスルーしたら、腹が痛くなるかもしれんぞ、って」

曹操は、自分を最初に見出した橋玄に感謝を捧げていました。
彼の墓の前を通りかかると、生前のジョークを思い出しつつ、丁寧に酒と食物の供えることを、欠かさなかったそうです。

こうした言葉からは、傷ついていて、悩んでいて、自分に自信がなくて。ひねくれた。そんな自分を受け入れてもらえて、うれしかった。
そんな曹操の姿も見えてきます。

橋玄については、いろいろとこのあと面倒な話が出てきます。それについては後述します。

橋玄は、人物評価に長けた許劭(150ー195)を曹操に紹介します。
ここからがちょっとややこしいのですが、彼らの評価と解釈です。

「平時ならば、きみは名官僚になる(=【治世の能臣】)」
「将来、世が乱れた時。きみのような【乱世の英雄】こそ、役に立つだろう。けれども、一歩間違えると【乱世の姦賊】になってしまいかねない。気をつけなさい」

これを聞いて、曹操は喜んだとされ、それこそ悪党の証だとされがちなものですが。
フィクションですと、曹操の心情推察はこんなところです。

「ヒャッハー、世が乱れたら英雄になるんだ、乱れてしまえ〜!」
と、そう単純なことでもないのです。

・彼らは清流派でもあり、宦官の孫である曹操によい感情があるとは言い切れない

・彼らに評価してもらえることそのものが、曹操にとってはありがたいことでもある

・【警告のニュアンス=事実】でもない。【乱世の姦賊】は可能性を示されているわけであり、そうなると断定しているわけでもない

・才能と道徳心は別物である

曹操からすれば、目利きのできる実力者が、警告のニュアンスをこめつつ、才能を評価してもらったことになるのです。
それで喜んだくらいで、悪人認定されても意味がわかりません。

曹操を評価した清流派として、何顒(かぎょう)もおります。
彼は気骨ある人物です。宦官に反抗し潜伏。その経歴から地下に清流派人士ネットワークを形成し、その人脈を通して逃亡や手助けを助けてきたのです。

そんな何顒も曹操を見て、関心しました。

「漢王朝はもはや滅びる。天下を安定させるとしたら、彼だろう」

この何顒は、荀彧を【王佐の才】として評価しています。

何顒が天下を安定させると評価した曹操。
そして【王佐の才】と評価した荀彧。
清流派のネットワークは、のちにこの二人を結びつけたのです。

 

鬼署長から熱血上奏文投稿官僚へ

清流派士大夫から評価を受けた数年後。曹操は官僚生活をスタートさせます。

熹平3年(174年)。
20歳になった曹操は当時の官僚登用制度【孝廉】(=親孝行で清廉である人物推薦制度)に推挙されます。
官僚としての人生をスタートさせたのです。

名目的には人格的に優れた人物を推薦する制度とはいえ、実際にはコネ重視。
20歳で推薦されることは早く、それだけ曹家に実力があったということでもあります。

曹操は甘いボンボンじゃない。
コネ採用で、ぬくぬくとしてはいられない。
まだまだ知名度も不十分。ただの取り柄のない奴だと思われたくもない。
地方官吏として善政を行い、よい政治家として名をあげたい。そう思っていました。

そんな曹操は、洛陽の北部尉(警察署長)になります。
敬愛する橋玄というロールモデルを参考にして、この若き官僚は派手なポリスストーリーを展開します。

「十数本の五色棒(=処刑用)を並べろ! 違反者はこれで撲殺するぞ!」
孟徳さん、鬼署長ですね。

これはポーズではなく、大物宦官・蹇碩の叔父が夜間外出禁止令を破った際、容赦なく撲殺しました。

※『ポリス・ストーリー/香港国際警察』の原題は『警察故事』だぞ!

宦官や汚職官僚があいつをなんとか左遷してくれと訴えるものの、バックには曹騰がいます。
出自がプラスに出ました。

この北部尉選考に関わった一人に、司馬防(149ー219)がいます。
のちに、魏王となった曹操は、酒を飲みながら彼にこう語りかけました。

「今の私を、また北部尉に推挙するか?」
「あのときは、まぁ、たまたま適切だと思っただけです」
「うまいこと言うねえ、いいね!」

曹操はこの答えに受けて大笑いしたそうで。
ちなみに司馬防の息子八人は優秀で、字から【八達】と呼ばれました。その二男が司馬懿、字・仲達です。

さて、こんな鬼署長は汚職官僚にとっては邪魔なのです。
左遷ではなく栄転で、首都から遠ざける他ありません。23歳の時、頓丘に赴任させられたのでした。

その翌光和元年(178年)、霊帝の宋皇后が謀反の罪で処刑され、一族も巻き込まれました。
曹操従妹の夫・宋奇も、処刑された一人です。

連座した曹操は罷免されていまいます。

光和3年(180年)、その文書に通じた知性をかわれ、【議郎】に任命され復帰しました。

このときの曹操は、持ち前の文才、観察眼、知性、容赦ない厳しさを発揮して、ビシバシ上奏文を書いて書いて書いて書いて、提出しまくります。
内容は、ストレートなものです。

「外戚と宦官は諸悪の根源です! もっと民の安寧を考えた政治を!」
「弾圧された清流派士大夫に返り咲きのチャンスを!」
「漢に善政を取り戻すのです!」

曹操の考え方は、実はそこまで複雑でもありません。
終始一貫して、清流派人士の用語と復権を訴えているのです。

ここも曹操のおもしろいところですが、もしこれが清流派ならば、疎ましがられて処罰されそうなものです。

しかし、そうはならないと。宦官の孫なので、そうならないのです。
出自を生かして、清流派をかばったという解釈もできなくありませんよね。

ただし、上奏文が採用されることもない。スルーされ続けます。

これも曹操の性格が垣間見えるのですが、意見がスルーされ続けると精神的にダメージがあるようなのです。
誰でもそうかもしれませんが、自分に自信があればこそ、辛いのでしょう。
その逆が認められること。だからこそ橋玄にあんなに感謝しているのでしょう。

前述した司馬防とのやりとりも、
「ナイスなレスポンスだな、いいね!」
という心理を感じます。

曹操は、ナイスレスポンスをした相手には割と寛大なのです。
あと、相手の答えが面白いと大受けし、ゲラゲラと笑います。陰険でもなく、生真面目でもなく、ノリはいいのです。

レスをスルーされる。話が通じない。
そうなると、曹操は過激でろくでもない行動に及ぶ傾向を感じます……SNSならブロックよりミュートが効くタイプとみた。

そんな曹操は、上層文をスルーされ続けて、精神的にふてくされました。

【治世の能臣】ルートが閉ざされたのです。
こうなると、【乱世の姦雄】ルートが待たれるところ。

そのルートが、彼自身の望みとは関係なく、近づきつつあったのです。
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