規格外の英雄その名は曹操!乱世の奸雄は66年の生涯で何を夢見ていたか?

血と傷だらけの道

バッキンガム公の亡霊:
夢を見ろ、悪夢を見続けろ、そなたの血腥い悪行と死を
リチャード三世』第五場第三幕

パーシー夫人:
そう、義父上はハリーを見殺しになされたのです!
二度と、嗚呼、二度と、愛児との約束よりも
他人との約束を優先して、御身の名誉を重んじめされるな
そのような過ちで、ハリーの霊まで汚さないで、彼を一人にしてくだされ!
『ヘンリー四世 第二部』第二幕第三場

 

【徐州大虐殺】

曹操には優れた点があります。才能もあります。
ただし、彼はスーパーマンでもなければ、聖人君子でもありません。

その最大の汚点が、初平4年頃(193年)に発生した【徐州大虐殺】でした。
徐州牧・陶謙(132ー194)と、兗州を治める曹操は、小競り合いを繰り返しておりました。曹操が一方的に戦ったというよりも、陶謙側に反撃して曹操が徐州を攻めていたというのが、当初の状況ではあります。

これが、一転してしまった悲劇が起こります。
官界を引退した曹操の父・曹嵩および曹操の弟を含めた一族殺害事件です。

状況は錯綜しています。

『魏晋世語』・『後漢書』「応劭伝」
殺害者:陶謙配下の兵士
護衛:応劭
状況:曹操は応劭を護衛にして、曹嵩を脱出させる手はずだった。そこへ陶謙配下の追っ手がかかる。
曹嵩は穴を掘って逃げようとするが、妾が肥満していて穴に引っかかってしまう。そして殺害された。

『呉書』(呉のバイアスあり)
殺害者にして護衛:陶謙配下・張闓
状況:陶謙は張闓を護衛として送り届けようとするも、魔がさした張闓が曹嵩を殺害した。陶謙は無罪。

曹嵩殺害事件には、報告側の悪意を感じます。
妾が肥満していた云々。そんなディテールは必要でしょうか? 悪意の反映ではありませんか。

後者では陶謙が被害者であるという、『三国志演義』に踏襲されるルートが形成されています。

前述しましたが、曹操は癇癪持ちと思われる言動がしばしば見受けられます。
その最悪の結果が【徐州大虐殺】なのです。

初平4年(193年)、10余城を陥落。
中国の「城」とは城下町も含めた範囲です。

翌年は5城を陥落。
この時は男女数十万を殺害したとされます。

ここではっきりしておきたいこと。
犠牲者数は、こうした際必ずしも問題とならないことなのです。

何人からが「虐殺」という定義はありません。
人口が少なく、かつ一族単位で社会が形成されていたスコットランドでは、40名以下でも【虐殺】とされています(【グレンコーの虐殺】)。

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※虐殺の記憶は消えない、語り継がれてゆく(閲覧注意)

戦乱の最中では、確たる数は特定できませんが、ともかくこの事件は【大虐殺】として歴史に刻まれました。

父と弟、一族を手にかけられたとはいえ。
敵対者である陶謙の領地であるとはいえ。

曹操は血を流しすぎました。
あまりに残酷な、消せない記憶が歴史に刻まれたのです。

曹操の兵士に追われて逃げ行く人々の中には、こんな人々もいたのです。

呉に仕えることとなる厳畯、そして諸葛瑾はじめ諸葛一家たちです。
彼らを武器で追いかけるのではなく、寛大に迎え入れたらば、どれほど曹操の力となったことでしょうか。

避難者から体験談を聞いた者たちは、曹操への警戒と憎悪をたぎらせます。
諸葛瑾の弟・諸葛亮、厳畯と同じく呉に仕えた魯粛は、曹操は項羽のように残酷だと評価しています。

のちに曹操が呉に迫った際、呉の人々はこう言い合いました。

「あんな豺虎(=凶暴な獣)に降伏したら、どうなると思うんだ!」

三石鼎立を招いた事態――それは、魯粛と心を同じくした周瑜の【赤壁の戦い】での奮戦であり、諸葛亮の【天下三分の計】でした。

彼らの心の底にあった、拭いがたい不信感。
その根底には、徐州で流れた血があるのです。

憎悪が憎悪を生み、血が血を流す。
統一されない中国大陸の大地が、血に染まってゆく。
その悲劇を生み出した一因は、紛れもなく曹操にあります。彼に染み付いた汚名も、理由がないわけではありません。

この乱世は、曹操一人が悪いわけではない。
けれども、彼にも重大な責任はあります。

世の中を変革すべく生き抜いてきたはずなのに、橋玄はじめ、少なくない人が期待をかけてきたはずなのに。
それが果たせなかったとしたら、それは彼自身のあやまちにも原因はあるのです。

この【徐州大虐殺】曹操人生最大の汚点でした。
父と弟を失った怒りだの、『三国志演義』の誇張だの、そういうことはこの際、横に置きましょう。

過ちは過ち。そこに弁解の余地はありません。

 

兗州の戦いで傷つく精神

徐州大虐殺で、傷がついた曹操の前途。
追い討ちをかけるような事態が、また起こります。

董卓のとどめをさした呂布ではありますが、彼には武勇はあってもビジョンはないようなものでした。
初平3年(192年)に長安を脱出すると、各地の英雄のもとを転がり込みながら、生きてはいます。

困ったことに、呂布はなかなか使いこなせないのです。

強いことは強い。
長安の李傕は賞金首にする。
袁紹や袁術も、存在そのものがよくわからないので、暗殺を試みている。

呂布は董卓殺しとして英雄になってもよさそうなものを、癖が強すぎてジョーカーのようになってしまったのです。

この呂布のみならず、空中分解した反董卓連合は、厄介なものでした。
その中心にいた張邈(ちょうばく)も、困りものです。邪魔になった袁紹は、曹操にこうアドバイスをしています。

「張孟卓、あれは殺しておいた方がいいぞ」

曹操は、その依頼を断って兗州で保護していました。
曹操が血も涙もなければ、そうはならないのでしょう。曹操は徐州から戻った際に、彼の顔を見て泣き出したこともあるとか。

この話といい、曹操は【徐州大虐殺】あたりから精神バランスが悪化していたようです。

兗州にはアンチ曹操派が多く、徐州大虐殺によってその声はますます高まっています。
その精神を決定的に悪化させるようなことが、興平元年(194年)に発生します。

陳宮や弟に迫られ、張邈が蜂起。
呂布をも味方につけ、兗州全土が曹操に反旗を翻したのです。

呂布の知名度のためか、いきなりぶつかったような印象もあるかもしれませんが、張邈由来です。

袁紹からすれば、こうなりましょう。
「だから私は殺しておけと言ったんだが。どうしてそうしなかった?」

そのせいで、曹操は痛い目にあいます。
郭嘉、夏侯惇、典韋らの奮闘もあって、兗州全土を奪われなかったものの、大ピンチを迎えているのです。

張邈・呂布
vs
曹操

この構図で戦いが続き、興平2年(195年)に食糧が尽きて両者動けなくなるまで膠着するのです。

曹操は弱気になります。
そこへ、袁紹から援助のオファーがありました。

「袁本初が支援してくれるって……どうしよう、それもありかな。なんかもう疲れたし……」
「ダメですってば! 絶対に何か裏があるから、これは断らなくちゃ!」

程昱らが必死で止めなければ頼っていたほど、弱気になっていました。

そのころ、徐州を納めていた陶謙が死去。
かわりに台頭したのが、劉備でした。

曹操は激怒し、劉備を潰そうとします。
劉備が善玉である『三国志演義』系では曹操が悪党ですが、史実を見ていくと曹操が怒る理由もわかるというものです。

「こっちが困って大変な時期に、なんだかよくわからん奴が、あの徐州トップとかありえんだろうがぁ!」

孟徳さんからすれば、こうなるでしょうよ。
荀彧が優先順位を見直すように説得し、これも不発に終わっております。

曹操は、この死闘を用兵の巧みさや伏兵によって、ギリギリのところで勝利に持ち込みます。
荀彧が指摘した通り、劉備に構っている余裕はありませんでした。

曹操は、気分の浮き沈みが激しく、メンタル悪化でろくでもないことをすると指摘してきております。
そういう意味では、人間臭い。
そのマイナス面が最悪の形で出ているのが、この時期ではないでしょうか。

曹操の悪評とは、後世の悪意ある作為によるものだけではないのでしょう。
生身の曹操は、かなり困った人ではあるのです。

精神がどん底になると、ろくでもないことをやらかす。そういう曹操には、リフレッシュが必要となります。
読書とか。狩猟とか。グルメとか。
酒とか。歌とか。宴会とか。恋愛とか。

彼の『短歌行』は優れた詩です。
ある意味、永遠の真理。文才溢れる酔っ払いシャウトですね。

以下に【訳文】を付けて掲載してみます。

對酒當歌 酒に對して当に歌ふべし
人生幾何 人生 幾何ぞ
譬如朝露 譬ゆるに朝露の如し
去日苦多 去る日は苦だ多し
慨當以慷 慨して当に以て慷すべし
幽思難忘 幽思 忘れ難し
何以解憂 何を以てか憂ひを解かん
惟有杜康 惟だ杜康有るのみ

【意訳】
酒を飲んだら歌うしかないわ
人生なんぼのもんじゃい
朝露みたいにすぐ終わるわけだし
過去の反省点が多すぎるわ
チギレでさっぱりしたいけどマジ無理
モヤモヤ感残ってんだよな
どうすればストレス解消できんの
これはもう酒しかないわけですよ

以下略、全文も素晴らしいので、各自ご確認ください。

曹操の文才は、高く評価されています。

ただ、
「粗いっていうか、弾けすぎですな。もうちょっと技巧を凝らしてもよいのでは?」
と、欠点を指摘されます。

曹操の文才は、唯一無二。古典をきっちりと踏まえて典拠とするため、パクリとかなんとかケチをつける意見を読んだことがありますが、いやいやいや……ある意味彼しかこの世界は生み出せません。彼だけの世界観です。

欠点と魅力は裏表。
ここまでぶっちゃけられる曹操は、文才も魅力的なのです。

本音むき出しであるがゆえに、永遠の命がそこにはある。

ここまでは、まあまあ無害です。節度さえ守ればね。
若い頃の張譲暗殺未遂から連綿と続く、その手の暴力沙汰となりますと、危険ですね……。

こう書いてしまうと、曹操がやたたとキレやすい困り者で終わってしまいそうですが、それだけではないのです。
ここは曹操の配下たちから、ストレス解消と打開策を学びましょう。

 

献帝と屯田制で飛躍せよ

袁紹、呂布、ニューカマーの劉備も割拠する中。
ブレイクのきっかけが欲しいところです。

そこで、荀彧が乗った妙案は、献帝奉戴でした。

洛陽から長安へ、そして長安から洛陽へ。
遷都とともに漂流する献帝。群雄にかつぎあげられて、安定しない立場でした。

曹操も、献帝が気にならないわけでもありません。
家臣からそのことを献策されてもいます。
ただ、黄巾残党、その他の賊、群雄との戦いで手が回らないのです。

建安元年(196年)、曹操陣営の元に献帝から救いを求める密書が届きます。
この密書を元に、荀彧が献帝保護とその後見人となることを強く勧めるのです。

曹操も、やっとここでこれに乗りました。よいタイミングでした。迷いのあった袁紹に先んじることができたのですから。
両者の動機が同じであったかわかりませんし、のちに変わってしまったのかもしれません。ともあれ、この時は君臣一致していたのです。

同時期の袁紹も、同じ選択肢がありました。
しかし彼は迷い、決断できなかったのです。

曹操は献帝を迎え、許に遷都を行いました。この都市は潁川にあります。潁川は、荀彧ら清流派の本拠地です。このことからも、君臣の間に溝があったとも思えません。清流派の理想を引き継いだ王朝の夢を、荀彧が見ていたとしてもおかしくはない状況でした。

曹操は献帝という大義名分のみならず、政治改革にも乗り出します。

【屯田制】です。

後漢末期からの人口激減は、食糧生産インフラ崩壊がその大きな原因でした。
この時代には、食糧がらみで悩ましい話が残されています。
桑、棗、泥臭い貝を食べたこと。人肉が混ざっていたこと。側室を殺し、その肉を振る舞った将軍の逸話も。

曹操のせせこましい機転も、
【梅を望んで渇きを止む】(梅のイメージトレーニングで水分補給省略)
として残されています。出典は『世説新語』「仮譎編」です。

行軍中、喉が渇いて歩けなくなって兵士に、曹操はこう言いました。

「がんばれ〜、前には梅の実がなっているぞぉ!」
これを聞いて、兵士は酸っぱい梅を想像して唾が湧いてきて、なんとか水源まで進めたんだそうです。

曹操のセコい話扱いではありますが、酸味と唾のメカニズムを理解しているという意味では、機転はあります。

余談ですが、後世になるとこの言葉は【機会的同性愛】(=刑務所、男子校、軍隊等、男性同士のみがいる環境下での同性愛のこと。日本の武士もそう)の意味で用いられるようになったとか。

「えっ、俺のおもしろ機転がそんな用語に?」
と、本人も驚きそうな転換ではありますが、ある意味では納得感もあります。理由は後述します。

日本が【男色・衆道】に寛容だった説は本当か?平安~江戸時代を振り返る

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女がいないなら男で我慢すればいいじゃん、ってことです。
そんな涙ぐましい逸話はさておき。

曹操自身も、食べることに興味津々であったのです。
グルメというよりも、実践的な興味ですし、中国では古来より食の知識も教養です。

曹操がまとめた食のガイドは『魏武四時食制』として残されております(※現在は散逸、一部のみ『太平御覧』に残存)。酒の作り方を細かくレクチャーした記録もあります。いちいちマニアックだな!

下手すりゃスープ一杯で国滅びる……中国料理の歴史がマジぱねぇ!

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曹操も、何はともあれ、食べることは大事だと自覚していたのです。

その結果が、食糧供給手段である【屯田制】でした。
これも強引なところがあり、喜ぶ人ばかりでもなかったことには、留意が必要です。いわば強制労働として、不満や怨恨も伴っていたのです。

大義名分と食糧供給手段を得て、曹操は順調に勢力を伸ばします。

そんな曹操に、呂布から逃れた劉備が救援を求めています。
曹操は厚遇しました。
かつて激怒して劉備を殺そうと息巻いていたことを考えると、どういうことなのかわからなくなりますが。

メンタルが安定したのでしょう。
献帝をゲットして頭一つ分リードできたし、【屯田制】も好調。
劉備を殺す宣言?
そんなこともあったかな。曹操はメンタルに波があるのです。

切り替えると、恨みをあっさり捨てる。そうできないと、いつまでも悩む。
このことも記憶の隅にとどめておいてください。

 

あの子を返して、私に戻して!【宛城】の悔恨

建安2年(197年)正月、曹操は宛城にて張繍を降伏させます。
張繍は曹操をおそれ、即座に降伏した楽勝とも言える戦いでした。

ところが楽勝に油断しきっていた曹操に対して、張繍は夜襲をかけるのです。
この戦いも要注意事項がありますし、弁護対象をしたい事項なのです。

曹操が油断しきっていたのは、張繍夫人との情事を楽しんでいたから?
それは、はっきりとしていないのです。

非常時でも女を抱く曹操カッコいいぜパターンとか。
TPOを無視するエロ曹操とか。
いずれにせよ、どうでもいい些細な誇張が目立ちますが。

元をたどると、「張繍が、族父(叔父)・張済の未亡人をを側女にされたからことに怒った」という推察まがいの動機にたどりつきます。

儒教道徳からすると、恥さらしということにはなります。
ただ、始皇帝の秦と同じ発想をすれば、こういう理屈にはなる。

「貞操とは、あくまで生きた相手にのみ誓うもの。夫が亡くなっているのであれば、貞操も何もない」

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後世の価値観からすれば、曹操が非常識ということになります。
当時はどうであったか。そこは慎重に考えるべきでしょう。

曹操がどんな動機で、どんなアバンチュールを楽しんでいたのか。
それが真実と言い切れるのか? 敗北決定打であったのか?
真偽不明です。

人妻とTPOをわきまえないで遊んでいた曹操像を強調される筋合いはそこまでありません。

アバンチュールをやられた案件は、古今東西あるもの。
ナポレオン戦争の名将・マッセナにもその手の逸話があります。

はっきりしていることは、曹操自身は敗北の決定的要素であるとみなしていないこと。

策謀に長けた賈詡の影もそこにはちらついています。エロい趨夫人(※フィクション由来の相手の名前)で盛り上がりたいのであれば、そこはご自由に。

次の確定事項は、犠牲者と曹操の精神的な打撃です。

長男・曹昴は、逃げる父に馬を譲り戦死。
甥・曹安民も死亡。
曹操の護衛を務めて三年目。ボディガードの典韋は、立ったまま奮戦して戦死を遂げました。

追悼式典で、曹操は典韋の死を悼み、激しく慟哭しました。
曹操は、泣く時はとことん泣くのです。典韋の朴訥さが好きで好きでたまらなかったのです。

智謀の士は多いからこそ、裏表のない護衛が安心できてたまらなかった。
そんな典韋が自分のせいで死んでしまった。後悔が止まらず、曹操は泣き続けたのです。

そして敗因分析と反省です。
「同じ状況があったら、次は人質をまず取るぞ! もう二度と繰り返さないからな!」
そう教訓を熱く語る曹操です。

一方、我が子・曹昴の死にはそこまで動揺していなかったと伝わりますが、これはポーズもあるようでして。

我が子よりも家臣の死を嘆いたほうが、感動的で奮闘させられる。
そんな心理分析もあるのでしょうが、それだけではない忍耐もあったと思われるのです。

曹昴の死を嘆いたのは、彼の母も同様でした。
夭折した実母・劉夫人にかわって、曹操正室・丁夫人が同母妹とともに養育していました。丁夫人には実子がおらず、愛を注いで育ててきたのです。

彼女は、曹操の顔を見るたびに激怒をぶつけます。

「あの子を引っ張り出して殺しておいて、どうしてそんな平気な顔をしているの! この悪魔、人殺し、最低最悪の冷血野郎!」

曹操は困り果てて、実家に彼女を返します。
クールダウン期間を経たと判断してから、迎えに行くのですが、彼女は出迎えません。それどころか機織りをして、夫を完全に無視をしています。

曹操は近づいて、背中をそっと撫でながら語りかけるのです。

「なぁ、こっちを向いてくれよ。一緒に車で帰ろう」

しかし、丁夫人は完全に無視。曹操は背を向けることもできずに、じりじりと後ずさりしながら戸口でこう訴えます。

「まだ許してくれないのかな?」

それでも彼女は無視。

「じゃあ、これでもう、俺たちは終わりなんだね……」

かくして離婚が成立し、曹丕らの子を産んでいた卞夫人が正室となるのでした。
それからまもなく、丁夫人は亡くなります。

丁夫人はかなり頑固な性格に思えますが、出自の出自も関係しているのかもしれません。
丁氏は、曹氏とつながりが深い一族です。
一方で卞夫人は、歌妓あがりで実家の支援はないのです。

いずれにせよ、曹操と丁夫人は夫唱婦随ではなく、生々しい感情をぶつけ合う関係であったことは確かなのでしょう。

そんな曹操は、頑固な妻と別れてスッキリしていたのか?
それは違います。臨終の際に、曹操はこうしみじみともらしたのです。

「我が生涯に一片の悔いなし。と、言いたいところだけれど……あの世で昴に再会して、母上(丁夫人)はどこにいるのかと聞かれたら、俺は……なんて言えばいいのかな……」

孟徳さん、やっぱりメンタルが弱い。
克服しようとして冷血になろうと頑張りますが、どうしてもできないのです。

むしろ鋼のメンタリティは、曹操の部下かもしれません。

その代表格が、賈詡です。
この宛城奇襲の背後には、張繍ブレーンであった賈詡がいたのです。

長男、甥、護衛をまんまと殺しておきながら、その曹操配下に加わる賈詡こそ、図太いとは思いませんか。
曹操には、恨みを忘れて賈詡を受け入れ、自分のミスだったと反省する器量はあるのです。

 

袁術と呂布の乱世退場

曹操は、このように一歩リードをしたとはいえまだまだ油断できません。
目下の敵は、三つ巴です。

曹操
袁術
呂布

袁術と呂布の間には、同盟の話もありました。
呂布が自分の娘を、袁術の息子に嫁がせようとしたのです。

しかし、呂布の配下にいた陳珪・陳登父子が思いとどまらせており、破断となりました。のちに父子が曹操に仕えていることもあってか、曹操の影がチラつくように思えることも確かではあります。

このうち、最初の脱落者は、袁術でした。

曹操が献帝ならば、袁術は【伝国の玉璽】を確保していたとされます。
入手経路や真偽も含めて、不明点は多いものではありますが、存在かチラホラとしていることは確かなのです。

袁術は、この玉璽を背景に帝位僭称をしたとされますが、ここも因果関係がハッキリとはしません。
起爆剤として何か転換点を欲していたのか? ヤケになったと断定てきるものでもありません。

断定できることとすれば、人心掌握術の問題と、世代交代が迫っていたことでしょう。
父を失ったころはまだ少年であった孫策(175ー200)が、袁術のもとで上り調子であったのです。カリスマ性に飛んだ孫策と比べたとき、袁術が冴えない存在に見えてもそこは仕方がありません。

袁術弱体化により、パワーバランスが崩れてしまいます。

袁術の力がある時、曹操は呂布とは膠着状態でした。
本拠が曹操への恨みを募らせる徐州ということもあり、うかつに手出しできない状態ではあったのです。

建安3年(198年)9月、曹操は下邳城の呂布を攻めます。
なかなか攻め落とせず、彼もちょっとやる気を失っていました。

ここで、郭嘉と荀攸がプッシュをしてきます。

「がんばって、今こそ呂布を倒すチャンスですよ! 袁紹が公孫瓚と戦っている隙にやっちゃいましょう。袁紹なんか味方につけたら、あとが厄介ですからね。呂布陣営はろくにブレーンがいませんし、今は負けてばかりで士気が低くなっています。陳宮が何か策を練らないうちに、なんとかしましょうってば!」

「うん、がんばる!」
曹操もこれには納得します。

郭嘉と荀攸の言うことは最もなのです。
呂布はあまりに強いイメージがありますが、ビジョンはなく、場当たり的な行動が多いのです。

いかに武勇があろうと、そこまで怖くはありません。

厄介なのは、ブレーンの陳宮でした。
彼は曹操を裏切った負い目があり、その復讐を恐れて降伏だけはできなかったのです。

一か八か、曹操の懐に飛び込む賭けに出られたら、話は違っていたのでしょう。

対呂布を無駄にややこしくした点として、曹操の自業自得もあります。
【徐州大虐殺】さえなければ、もっとスムーズに話が進んだのでしょうが。

この年末、ついに呂布は生け捕りにされました。

ここが曹操のちょっと面倒くさいタイムが始まります。
はい、まずは陳宮が連行されてきました。曹操はおもしろがり、趣味の悪い煽り方をします。

「チッス、チッス! さんざん頭がいい俺様はうまくやってやると調子こいといて、このザマなんすか〜? どんな気持ち〜?」
「そっちの脳筋野郎(=呂布)が俺の言うこと聞かないからだ! もういい、殺せや!」

かくして陳宮は処刑されました。
ただ、煽って曹操はすっきりしたのか、陳宮の遺族は厚遇されました。本人も謝ったら、登用されたかもしれませんね。
孟徳さん……しょうもない煽りしてないで、素直にスカウトしたら?

はい、次は呂布!
呂布はこう訴えてきます。

「縛るにしても、きつすぎるってば。ちょっとゆるめてくれない?」
「は? 虎を縛るのにゆるめられるわけないだろ」

曹操は塩対応するものの、呂布が自分の武勇をアピールし始めるのです。

「でもちょっと考えてみなって。歩兵はあんた、騎兵は俺。それで暴れたら、今後楽勝だと思うんですけどね」
「むぅ?」

曹操はそう言われ、かなり真剣に迷い始めます。
そこって、迷う必要ありますかね?

そんな曹操に対して劉備がこうアドバイスします。

「いやいやいや、そいつは、信じたらあかん奴ですから! 丁原と董卓のことだってあるでしょ」

すると、呂布は怒ります。

「こっちを信じたらあかんって言うお前こそ、一番信じたらあかん奴だろ!」

そう罵倒しながら、呂布は絞首刑となったのでした。

これも奥深い話ではあります。

鳥の将に死なんとする、その鳴くや哀し(鳥が死のうとする時の鳴き声は、とても哀切だ)
人の将に死なんとする、その言ふや善し(人が死のうとする時の言葉には、とてもよい意味がある)

ちょっと忘れないでおきましょうね。

はい次〜、張遼です。
これは即採用です。この張遼は、このあと曹操の元で大活躍を遂げます。

さて、張遼ですが。
彼相手には、曹操はこうアドバイスをしたことがあります。

「単身で敵陣に乗り込んで、敵を帰服させたね。そういうの、勇気があると思っているのかな? そういうカッコつけスタンドプレーは、将のやることじゃない」
「そうですね、すみません。もう二度とやりません」

孟徳さん……あなたの言動を見ていると、自分のやらかしたことを棚上げしていませんか?
そうツッコミどころがありますが、実体験をふまえてのアドバイスかもしれませんし、そこはよい話としておきましょう。

曹操はかくして宿敵を片付け、すっきり爽快、建安3年(198年)が終わってゆきました。

明けて建安4年(199年)、落ち目の袁術は、失意のまま燃え尽きるように退場してゆきます。

実質的な死は、明けてのことです。
大量の吐血があったという記録されておりますので、健康悪化も何らかの影響があった可能性はあります。
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