イラスト・富永商太

徳川家 週刊武春

本多忠勝の生涯と5つの最強エピソード・年表付!兜や城下町の秘話も熱い

更新日:

──生涯戦うこと57度
されど、かすり傷一つ無し──

天下三名槍の一つ「蜻蛉切」を手にした本多忠勝
戦国ファンの間では最強武将No.1として知られている。

「ただ勝つのみ」
そんな願いで付けられた「忠勝(ただかつ)」という名は三河武士のシンボルでもあり、徳川家康の天下平定には欠かすことのできない忠義の武将でもあった。

5つのエピソードに注目しながら、忠勝の生涯と強さを振り返ってみよう。

 

初陣は桶狭間

「徳川四天王」にして「徳川三傑」の一人。

本多平八郎忠勝の父は、松平家臣・本多平八郎忠高である。
母は小夜(植村氏義の娘)で、忠勝は二人の長男(幼名は「鍋之助」)だった。

生誕は天文17年(1548年)2月8日。場所は西蔵前城。
愛知県岡崎市は西蔵前町峠の火打山にあった城で生まれている。

西蔵前城跡の「本多忠勝誕生地」碑

主君・徳川家康は、忠勝より5歳年上で、同じく「徳川四天王」の榊原康政は同年だ。

2歳の時、父・本多忠高が戦死したため、叔父である欠城主(かけじょうしゅ)・本多忠真を頼り、洞城(ほらじょう・岡崎市洞町)に母と住んだと伝わる。

初陣は永禄3年(1560年)の「大高城兵糧入れ」(名古屋市緑区大高町)である。
今川義元織田信長に討たれた「桶狭間の戦い」の前哨戦となった作戦の一つで、松平元康(後の徳川家康)を支えて危険な任務を完遂。

翌年に「登屋ヶ根城攻め」で初首を獲ると、トレードマークの一つでもある「鹿角脇立兜」を制作。
三河の一向一揆では、同じくトレードマークにちなんで「蜻蛉切の平八郎」としてその名を馳せた。

 

「三河の飛将」から「日本の張飛」へ

それからは文字通り八面六臂の大活躍だ。

軍事訓練で馬に乗る姿を見た領民には「三河の飛将」と崇められ、姉川の戦いでは怒涛の単騎駆けで「日本の張飛」と畏れられた。

詳細はエピソード編に譲るが「一言坂の戦い」をはじめ、その後の「長篠の戦い」や「高天神城の戦い(首級22)」など、最強に恥じぬ活躍で戦国の世を生き抜いていく。

結果、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦い」(岐阜県不破郡関ケ原町)までに生涯57回も戦い、

──武功、優れて多しと言へども、未だかつて傷を被る事無し。(『寛政重修諸家譜』)

として傷は1つも無かったとは驚くばかりだ。

一方、同じ四天王の一人にして最も若い井伊直政と比べるとその所領は小さく、天正18年(1590年)の徳川家康関東移封に伴った際は、上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石。

慶長6年(1601年)には、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移封されている。
桑名では「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業を断行し、「桑名藩創設の名君」として仰がれるほどだった。

徳川家康のイトコにして戦国一の暴れん坊・水野勝成も、福山藩主になった後は名君としての誉が高いが、忠勝も含めて、単なる馬力だけでは真に強い武将とはなれなかった証左かもしれない。

しかし……。
慶長8年(1603年)から眼病にかかり、慶長15年(1610年)、同病が原因で桑名城で病没。享年63。
法名は「西岸寺殿前中書長誉良信大居士」で、墓所は浄土寺(三重県桑名市)である。

子孫は、姫路藩主(兵庫県)、浜田藩主(島根県)などを経て、明和6年(1769年)岡崎藩主となり、明治維新まで岡崎藩主として祖先の地・岡崎を治めた。

岡崎城

以降、本多忠勝のファイブエピソードへ!

 

エピソード1「装備」

本多忠勝の容姿については、一昨年(2016年)のNHK大河ドラマ『真田丸』の藤岡弘、さんや、昨年(2017年)のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の高嶋政宏さんのイメージが強いであろう。

一言で表せば「無骨」。
特徴的な鹿角の兜のみならず、肩から下げられた「金箔押の大数珠」は、いかにも堅強な武人というイメージだが、実際はどんな装備だったのか?

まずは「鹿角脇立兜」から見てみよう。

三河武士のやかた家康館にある本多忠勝の顔出し看板(館内は撮影禁止ですが、この顔出し看板と体験コーナーは撮影可能です)

 

◆兜「鹿角脇立兜」

和紙を貼り合わせ、黒漆が塗られた角が最大の特徴。

なぜ、鹿なのか?
次のようなエピソードが残されている。

初陣となった永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」。
その翌年秋、本多忠勝は、松平元康に命じられ、矢作川を越えて刈谷方面へ偵察に行くこととなった。

帰り道、渡河点が分からなくて困っていると、1匹の大きな牡鹿が現れ、川を渡り渡河点を教えて消える。
忠勝は、その鹿を八幡神の使いと信じ、伊賀八幡宮の神主・柴田因幡に「鹿の角をあしらった脇立の兜制作」を依頼した。

あるいはこんな話もある。

本多忠勝が、八幡神から鹿の角の兜を賜る夢を見たので、伊賀八幡宮へ行ってみた。
すると、神主・柴田因幡が護符を貼り重ねて作っている。

「何事か?」と事情を聞いてみれば、
「夢で、鹿の角を作るようにと八幡神に告げられたので、作っている」
と答えたので、それを貰い受けて兜に付けたという伝説も。

 

◆鎧「黒糸威胴丸具足」

忠勝が好んだのは、動きやすさを重視した身軽な「当世具足」だった。
重装備なのに傷だらけだった徳川四天王・井伊直政とよく対比される。

見た目イカつい金箔押の大数珠を肩から下げていたのは、倒した敵を弔うためと伝わる。

 

◆愛刀「稲剪(いなきり)の大刀」

雲州道水作とも、伯耆広慶作とも。
刃渡り三尺(約1m)で、稲を背負った者を、稲もろとも大袈裟で切り倒した事から「稲剪の大刀」と呼ばれる。
十代の頃は、肩から吊っていたと伝わる。

 

◆愛槍「蜻蛉切(とんぼきり)」

藤原正真作で「天下三名槍」の一つ。
柄の長さは1丈3尺(約4m)で、一説には柄の長さが2丈の物と2本あったとか。

 

◆愛馬 黒馬「三国黒」

「三国黒毛」ともいい、徳川秀忠から贈られた。
しかし「関ヶ原の戦い」における島津義弘軍の銃撃により死亡し、本多忠勝は落馬した。
このときも怪我は、していない。

 

◆馬具 鞍は「海無鞍」と呼ばれる形式の「牛人形鞍」

「関ヶ原の戦い」の時に「三国黒」につけていた鞍。
「三国黒」の忘れ形見として、家臣・原田弥之助が持ち帰ったと伝わる。
鐙は「一本杉鐙」。

 

エピソード2「初首」

13歳の初陣は、さすがの忠勝も大活躍とはいかない。
敵(織田方)の武将・山崎多十郎に討ちとられそうになり、叔父であり育ての親でもある本多忠真(ただざね)に救ってもらっている。

ただし、14歳時の「登屋ヶ根城攻め」(愛知県豊川市長沢町)では、
原文「のち、かならず、物の用に立つべきものなり。」(『寛政重修諸家譜』)
意訳「将来、必ず、徳川家康公のお役に立てる大物になるでしょう」
と叔父・本多忠真に言わしめた逸話が残っている。

登屋ヶ根城(愛知県豊川市長沢町)

このときは、育て親の叔父・本多忠真が、なんとかして本多忠勝に敵兵の首をとらせようとして奮迅。

敵兵を倒し、
「この敵兵の首をとれ」
と言うと、本多忠勝は、
「我、あに人の力を借りて功を立てむや」
「他人の力を借りてまで戦功を立てたくはない」
と断り、自ら敵陣に駆け込んで、敵兵の首をあげた。

本多忠真は感涙し、
「のち、かならず、物の用に立つべきものなり」
と徳川家康に言上する。

この「登屋ヶ根城攻め」後、本多忠勝は「鹿角脇立兜」の制作を依頼。
さらには愛刀「稲剪りの大刀」、愛槍「蜻蛉切」を次々と手に入れ、16歳の時には「三河一向一揆」(注)鎮圧戦において、一向宗から浄土宗に改宗する。徳川家康側につき、多くの武功を挙げたのだ。

かくして「蜻蛉切の平八郎」と呼ばれるようになった。

※三河一向一揆:西三河(三河国西部地方)全域で永禄6年(1563年)9月から翌・永禄7年(1564年)2月までの約半年間行われた一向宗(浄土真宗)の門徒による一揆。

 

エピソード3「一言坂の戦い」

生涯無傷の本多忠勝。
最強武将と称えられる所以の要因であるが、それは全戦全勝を意味するものではない。

当然ながら敗戦も経験しており、同時にその名を轟かせたのが「一言坂の戦い」である。

林大功画「本多平八郎忠勝一言坂奮戦図」

忠勝25歳の時だった。

遠江に大軍を率いて侵攻してきた武田信玄
その偵察に出向いた忠勝は武田軍に見つかってしまい、図らずも「三方ヶ原の戦い」の前哨戦となってしまう。

危険な殿(しんがり)を務めた忠勝は、上の絵にもあるように、見付(静岡県磐田市見付)に火を放ち、武田軍の追撃を遅らせた。
そして一言観音を祀る「一言坂(ひとことざか)」で追いつかれて、戦いとなる。

この時のすさまじい戦いぶりをして、徳川家康は「平八郎(本多忠勝)が八幡神に見えた」と絶賛。

敵である武田軍の武将・小杉左近(武田信玄の近習)も、
──家康に過ぎたる者が二つ有り 唐の頭に本多平八
と書いた札を立てて褒め称えた。

続く「三方ヶ原の戦い」で徳川史上、最大となる敗戦を喫し、父と慕っていた叔父の本多忠真も討死。
退却の際、自ら殿を申し出ての悲劇であった。

忠真は、我が子として育てた忠勝の活躍ぶりを見て、
「自分の役目は終わった。ここが死に場所」
と思ったかものしれない。(※実子は出家している)

以下は、本多忠真の忠義を称えるために建てられた「表忠彰義之碑」である。
現地案内板からその内容をお伝えしよう。

「表忠彰義之碑」(犀が崖)

「この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。
本多忠真は、徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。

本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿を買って出ました。
道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。

忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。

また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。」(現地案内板)

徳川に多くの忠臣を輩出した本多家であるが、この活躍がもっと世に広まることを願いたい。

次のページへ >



-徳川家, 週刊武春

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.